坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

外婚制共同体家族

外婚制共同体家族。

エマニュエル・トッドの提唱した概念で、兄弟が全て親元に残る家族形態である。基本的価値として兄弟間は平等であり、親の権威に服する。中国やロシアなどがこの家族形態の地域である。

外婚制ということは内婚制もあるということで、イスラム世界が内婚制共同体家族の地域である。内婚制共同体家族では結婚は父系のいとこ同士の結婚が優先される。外婚制共同体家族ではいとこ婚は禁止されるかあっても少ない。

外婚制共同体家族は大家族を作ることを目的としており、大家族を作るのは戦争に勝つためである。

元々は、世界の全ては核家族だった。

それが、ユーラシア大陸の内陸部で共同体家族が生まれた。共同体家族に影響されて、直系家族や平等核家族が生まれた。直系家族は親元に子供が一人残る形態の核家族で、基本的価値は権威と不平等、日本や韓国、ドイツ、デンマークスウェーデンなどが直系家族の地域である。平等核家族は兄弟を平等に扱い、基本的価値は自由と平等、フランス、イタリア、スペインなどが平等核家族の地域である。

東アジアでは姓を持つことで女系社会から父系社会への移行が進んでいったが、最初に共同体家族を作ったのは遊牧民である。

中国は元々は直系家族の地域だったが、戦国時代の秦は遊牧民の影響を最も強く受け、外婚制共同体家族だった。その秦が天下を統一したことで、中国全体が外婚制共同体家族となった。

中国の歴史は、北方の遊牧民が河北に侵入して王朝を樹立し、その王朝が長江を渡って天下を統一するということが度々繰り返されている。

それでも唐の時代までは、河北に定住した遊牧民達は漢民族に同化するのが常だった。それが契丹が遼を建国する頃から変わり始める。

遊牧民は自分達の文字を作り始めた。契丹契丹文字、タングート族の西夏西夏文字、モンゴルがモンゴル文字女真族満州文字を作った。

そうすると、遊牧民漢民族と同化しなくなっていく。

同化するどころか、非支配者を差別したり、強制的に同化させようとしたりした。モンゴルの元はモンゴル人の次に西域出身の色目人、金(女真族の国)の住民を漢人南宋の住民を南人として4つの身分を作り差別した。女真族の清は漢民族に弁髪と満州服を強要した。そうして遊牧民達は、中華という文明社会に対し自らのアイデンティティを保った。

ヨーロッパでは匈奴が西進したものと言われるフン族アヴァールから、マジャール人、ブルガル人などが侵入して国を作った。

 

遊牧民が最も猛威を奮ったのはチンギス・ハンのモンゴルである。

モンゴル軍は全軍軽装の騎兵で、モンゴル兵は皆5頭から10頭の馬を持ち、馬が疲れたら乗り換えていくらでも馬を走らせることができた。弓は動物の骨で作り、連射が効き遠くへ届く。モンゴル兵は飢えれば馬を殺してその肉を食い、川があれば馬の皮を袋にして渡った。モンゴル兵は何日でも飢えに耐えることができ、また食べればいくらでも食べることができた。

モンゴル軍が都市を攻める時には、周辺の住民を徴発し、堀を埋めさせた。都市の城壁からはやが飛んできて、堀を埋める者達に当たった。都市を守る者と徴発された周辺の住民は同じ民族であり、矢を受けた者はその死骸により堀を埋めることになった。

モンゴルでは略奪婚が盛んだった。チンギス・ハン自身が父親が母親を他で部族から略奪して生まれた子供で、チンギス・ハンはモンゴル人なのか他部族の子なのかわからなかった。

チンギス・ハンもまた妻を他部族に奪われ、取り返した経緯のあり、生まれた長男は自分の子か他人の子かわからなかった。 その後チンギス・ハンは征服により多くの女を略奪し、現代では男系子孫が1600万人、世界史上で最も多くの子孫を残した人物となった。

 

中国では皇帝の権力が王朝が変わる度に強くなった。

 漢の時代には各地に豪族がおり、その豪族から官僚を登用していたが、唐の時代に科挙を採用する。

唐の時代までは貴族制度と科挙の併用だったが、次の宋の時代に科挙が全面的に実施され、貴族の代わりに士大夫階級が形成される。また宋の時代から、中国の王朝は対外的に弱くなる。

明の時代は皇帝の力が強く、しかも官僚の給料が安かった。官僚は皇帝に誅殺されるのを恐れ、朝家族と水杯をして出仕し、夜帰ってくると無事だったことを家族と喜んだ。

明は永楽帝の時は対外的にも強かったが、その後モンゴルが皇帝を捕虜にする事件があり、また海に向かっては倭寇に悩まされた。

そして明は女真族の清に滅ぼされた。

 

現在のロシアは、かつてモンゴルに支配されていたが、モスクワ大公国か台頭して「タタールの軛」から脱した。そのモスクワ大公国もモンゴルを強く引きずる国家だった。

そのモスクワ大公国からイヴァン雷帝が出て、現在のロシアの原型を作った。イヴァン雷帝は多くの家臣を粛清し、その中には有能な軍人も多く含まれていた。有能な軍人を粛清するのでロシアは対外的に、特にヨーロッパに対して弱く、リトアニアポーランド連合王国と数年戦って得るものがなかった。イヴァン雷帝はロシアの原型だけでなく、ロシアの暴君と戦争スタイルの原型ともなった。

ロシアはヨーロッパの強国だったが、それでもヨーロッパに対し威を奮うことが少なく、代わりにコサックを用い東に勢力を伸ばしていった。

それでもロシアは時に驚嘆すべき底力を発揮した。ナポレオン相手に、焦土戦術で勝ってしまったのである。どんなに国土が荒廃し、人民が飢えて死んでも勝利する。そういう得体の知れない怖さをロシアは持つようになった。

ピョートル大帝やエカチェリーナ2世の啓蒙主義手な改革でもロシアの土俗性は拭うことができず、19世紀の農奴解放によってもロシアは前近代性を引きずっていた。

そこにロシア革命が起こり、レーニンが登場する。

エマニュエル・トッドによれば、共産主義は外婚制共同体家族の発明だという。

外婚制共同体家族は兄弟が平等で、兄弟が連帯して「父殺し」をしたとトッドはいうのである。

レーニンの後を継いだスターリンは大粛清を行い、独ソ戦では2600万人という犠牲を出しながらナチス・ドイツ相手に勝利を収めた。

共産主義が経済的には回らなかったが、それでもロシアの農奴を国民にした。

また共産主義は中国にも飛び火し、毛沢東の大躍進、文化大革命となった。

旧ソ連が解体し、プーチンが台頭して、ロシアは旧ソ連よりも帝政ロシアに近い国家となった。

そのプーチンのロシアが、ウクライナと戦争をしている。

しかし去年までの戦争の経緯を見てもわかるように、NATOの武器援助を受けたウクライナは、ロシア相手に優勢に戦い続けた。

権威主義の外婚制共同体家族が戦争に優位な時代は完全に終わり、自由主義のテクノロジーが勝る時代となったのである。

 

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