『西遊記』は何度かテレビドラマ化されたが、私にとって印象が強いのは堺正章主演のものである。
というより堺正章主演のものしか観ていないのだが、CG技術が発達してからの『西遊記』を観る気は私には起こらなかった。それよりゴダイゴの『ガンダーラ』のエンディングの方が、古びたフィルムによる映像であっても観たかった。
西安の大雁塔や雲崗の石仏、砂漠を行くキャラバンなどは、アジア世界への憧れを狂おしいほどに掻き立てるものだった。
砂漠に対する憧れは、私はかなり長い間持っていた。
今となれば、私の生活で砂漠で生きていけるとは思えないのだが、砂漠は私にとって自分の生きる力の挑戦などではなく、文明への憧れだった。
私に限らず、日本人の中国への憧れというのは長い間あって、それは奈良時代の遣唐使の精神の遺伝である。
今はそうではない。中国は一党独裁国家であり、日本を傘下に収めようとする敵である。もはやシルクロードへの憧れもない。しかしかつては西洋も東洋も同列に憧れの対象とする時代があり、それを左翼に共産圏を楽園とする幻想作りに利用された時代もあった。
この中国への憧れは虹を掴もうとするような、我々にとって狂おしいが、また決して手に入ることのない憧れであった。
この憧れが、空海という天才を生み出しもした。
空海は日本の修験道などにある密教の欠片から、密教の姿を想像して、入唐して密教を学んだ時には、師匠が教えるものがなかったという天才である。空海ほどの天才は、サンスクリット語もパーリ語も知らず、漢語の仏典だけで日本の仏教はブッダの教えとは違うことを看破した、江戸時代の冨永仲基以外にはいないかもしれない。
奈良時代は唐の律令制度を導入した時代であって、しかも律令制度を完成させることができずに、日本は律令制度を崩す方向に舵を取っていった。
平安時代になり、菅原道真が遣唐使を廃止して、日本は中国との国交はなくなり、国風文化が生まれる。
権門勢家の世で、武士として始めて政権を取った平清盛は太政大臣になる。
太政大臣は元々、摂政、関白が兼ねていたが、藤原兼家(藤原道長の父)が大臣職を辞して摂政になってから、太政大臣は権力を持たない名誉職となった。
清盛が太政大臣に就任したのは画期的なことだった。
太政官を通じて日本を支配したければ、清盛は左大臣になれば良かった。しかしそれをせずに太政大臣になったのは、太政官を通じた朝廷の権力はもはや機能しておらず、権門勢家の夜であるということの、清盛の高らかな宣言だったのである。
清盛以降、足利義満、徳川秀忠などが太政大臣に就任して権門勢家の時代を強調し、天皇家を圧迫するようになっていく。
遣唐使廃止後、中国とは経済的な交流はあったが、学問的な探求心を持って中国に渡る者はほとんどいなかった。
そのような中で宋に渡って仏教を学んだのが、臨済宗の開祖栄西と曹洞宗の開祖道元である。禅宗は大乗仏教の中ではブッダの原始仏教に部分的に先祖返りしたところのある宗派で、「日本の仏教は大乗の二乗」と言われる中で、浄土教の他力本願に対し、自力本願を目指した宗教である。
鎌倉新仏教の法然、親鸞、一遍、日蓮は、中国で学ぼうとはしなかった。
栄西が道元以前にも、日本で禅は学ぶことができた。その場所は延暦寺だが、栄西も道元も、延暦寺で学んだだけでは足りないと思い中国に渡った。
鎌倉時代に、日本人の精神に重大な変化が起こっている。
『沙石集』という説話集に、土地を売った父親のために土地を取り返した武士がいるが、父親はその武士の弟に土地を譲り、その武士は土地を得られず裁判になった。
泰時は土地を得られなかった武士を勝たせたかったが、調べた結果裁判でその武士は勝てないと判断するに至った。
そこで泰時はその武士を自分で養い、九州に土地の空きができるとその土地を武士に与えた。
ちょうど江戸時代の大岡裁きの「三方一両損」のような話が、この頃から出てきたのである。
権門勢家の世になり、日本人の目が外でなく内に向いた時に、新たな規範が生まれたのである。この流れは、江戸時代に寺請制度ができて、日本仏教が葬式仏教となるまで続く。
LGBT法案の動きを観てもわかるように、今日本は強烈に内向きである。
しかし内向きの時にこそ、日本に新たな規範が生まれるのである。遠い虹を掴むような思いで海外に憧れていたのでは、この国に規範が生まれることはない。
そしてこれから生まれる規範は、自力本願を目指しながらまたいじめの温床にもなった禅宗を超えるものだろう。
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