坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

秀吉の功罪

日本の歴史は、秀吉以前と以後で大きな断絶がある。
古代律令国家が崩壊して権門勢家の世となり、平清盛太政大臣に就任する。太政大臣は元は藤原摂関家が独占していたが、藤原道長の父の兼家の時に、兼家が大臣職を辞して摂政となって以来、天皇の師傅という実権を持たない名誉職となった。
平清盛太政大臣でなく、実権を握れる左大臣になっても良かった。しかしそれをせずに太政大臣になったのは、太政官が既に政府として機能しておらず、敢えて実権のない太政大臣に就任することで、朝廷が日本の実権を握っていないという、権門勢家の世の高らかな宣言なのである。
それでいて、太政大臣太政官を通じて統治が行われているような矛盾した擬制を人々に与えた。
この矛盾した擬制の元に、日本は実質無政府状態となり、力のある者が朝廷から何らかの地位を得て、最大の権門として日本を一元的に支配するという世の中になった。かつての律令国家の時代のように、海の彼方に虹を見るような憧れというものを、日本人は持たなくなった。
それでも日本人は、記憶の底に、無意識に、海の彼方ヘの憧れ、律令時代ヘの憧れを持っており、時としてそれが出た。後醍醐天皇建武の新政から南北朝時代がそれで、南北朝時代全般を通じて、北朝室町幕府の方が優勢だったが、足利義満が登場して南北朝を合一するまでは、戦乱を終わらせることができなかった。
南朝は吉野の賀名生という地に拠点を置いていた。
要害かもしれないが、そんなところに籠もっても簡単に落とせるだろう。そうならなかったのは北朝側が攻めなかったからである。
かつて承久の乱の時、北条泰時が父の義時に、「後鳥羽上皇が自ら兵を率いてきた場合はどうすればいいか」と尋ねたところ、「その時は一矢も射ることなく降伏せよ」と答えた。
天皇相手に直接弓を引くことはできないのである。賀名生の南朝北朝が攻撃できなかったので戦乱は続いた。高師直が「天皇は金や木で作ればいい」と言い、土岐頼遠が「院というと、犬というか、犬ならば射ておけ」と言って光厳上皇に矢を射たのは、北朝天皇だからである。自分達が担ぐ天皇が偽物だと思っていた訳だ。
そして次に、律令時代ヘの憧れを利用したのが秀吉である。
太政大臣と違い、関白職は律令政治が機能していた時代に実権のあった官職である。実際には藤原摂関政治律令制を崩していったのだが、延喜・天暦の治のように、表層的にでも律令時代ヘの回帰をしたことがあるこの時代に、人々は胸を焦がすような憧れを持っていた。
秀吉は関白に就任することで、人々の律令時代ヘの憧れを呼び起こしたのである。
秀吉のやったことは極端である。
関白になった秀吉は、まず自分の勢力圏全てで楽市楽座を行い、関所を廃止した。このようなことは、秀吉以前にはできなかったことである。
座も関所も利権である。よく利権を手放したと思うが、秀吉はそれをやった。
そして惣無事令を発して、自分の勢力圏の外の大名達に停戦を命令した。
この惣無事令は戦国大名も無視できず、伊達政宗も惣無事令を意識しながら征服事業を続けざるを得なかった。
そして太閤検地である。信長でさえ、実施したのは申告制の差出ばかりで、検地の実施は越前一国しかできなかった。

日本のリーダーシップの取り方は、基本は下の意見を吸い上げるボスと、ナンバー2がいる。ナンバー2が部下に厳しく当たり、ボスが優しさを見せる。会社では直属の上司が厳しく、それより上が優しいことが多い。
しかし、逆のパターンもある。ボスが厳しくて、ナンバー2以下が下に対し甘いパターンである。
検地に限れば、秀吉は厳しいボスだった。隠し田んぼもことごとく見続け出し、全ての田畑を実測検地するように命じた。
そして秀吉の部下は実施にあたり、現地の実情に合うように、領主に差し出すのとは別の帳簿が作成され、実測されない農地も多くあり、また隠し田んぼも多く残った。

このように、トップとその下の者達の態度が違う場合、両者合わせてひとつの腹ということが多い。
実際に増税は実施された。しかし不正な申告も多く残った。
それにしても思うのは、秀吉の時代に生きた者達の可憐さである。
秀吉は多くの大名を改易したが、改易に抵抗して謀反を起こした者など一人もいなかった。
皆、秀吉の作る新国家への参加を熱望し、新国家に非承認されることを恐れた。非承認されないためには全財産を奪われても反抗しなかった。
秀吉以前はそうではなかった。武士は主君と争うとなれば、城を枕に討死する覚悟で戦った。何より己の力を頼みに、一所懸命に戦う武士の精神は、秀吉によって奪われた。
江戸時代になっても、秀吉によって作り変えられた日本人の精神は引き継がれた。
徳川幕府は秀吉の血筋を根絶やしにし、阿弥陀ヶ峰の秀吉の廟所の秀吉の遺骸を掘り出して川に捨て、大坂城の石垣に盛り土をして新しい天守閣を作った。そうして秀吉の築いたものに鞭打って、自らを秀吉の政権より強固なものに見せようとした。
しかしそうではなく、検地は大名の封土では実施せず、加藤清正の加藤家を改易するさえ、三代家光の時代になってからという慎重さで、小さい大名を多く改易することで徳川幕府はその威を張っていた。それでも「源氏でなければ将軍になれない」と言って、諸大名が将軍の実権を抑えて、ついには幕府を実質無力化するようなことは、江戸時代には起こらなかった。
そして江戸時代に朱子学が流行し、尊王攘夷の思想となって幕府を倒す原動力となった。徳川幕府潜在的には、正統な政権とは最後まで見なされていなかった。

秀吉の作った、古代律令制を想起させる新国家は、多分に虚構であり、多分に真実である。
人々は、不正を見逃してもらいながら、新国家に参加する喜びを得、また不正を見逃されたことに負い目を感じた。それが改易された時の、無抵抗な大名の可憐さとなった。
秀吉は、功罪共に日本史上最も大きく、最近では「この人物さえいなければ」と思うことが多い。
徳川幕府の評判の悪い寺請制度でさえ、秀吉の施策があったからできたことで、寺請制度により、鎌倉新仏教以来の規範作りの試みは死んで葬式仏教となった。
もっとも、秀吉が実施した検地は160ヶ国以上ある。全ての国が2・3回検地を実施されたということだ(越後は検地未実施)。検地が多く実施されればそれだけ税収が増える。後20年秀吉が生きていれば、より不正のない中央集権的な国家となっていっただろう。日本人が海の向こうを虹を見るような憧れを持つように、中国的な中央集権国家、または西洋的な近代国家に憧れを持つと、それがひとつのベクトルを形成する。

今後、日本の行くべき道は、権門勢家の内向きな、規範を形成ベクトルと、海の向こうに虹を見るような憧れで国家を形成するベクトルのどちらにも偏ることなく、真ん中を歩めるようになるべきだろう。

古代史、神話中心のブログhttp://sakamotoakiraf.hateblo.jp/もよろしくお願いします。