私は無神論者である。
昔は無神論でも幽霊を否定できなかったが、今では幽霊も信じなくなった。
昔は姓名判断を信じていて、姓名判断の毎日の占いを見ていたし、性格もよく符号していると思っていた。しかし今では姓名判断も見ない。
私の小説『ラジャ・マハラジャの冒険』で、「ラジャは怨霊に強い」という設定にしたが、実際人間は、怨霊に負けないようになるのである。
百田尚樹氏によれば、現在小説は売れない時代らしいが、小説が全盛だった時代、ジャパンホラーは世界を席巻するほどのカルチャーだった。
ジャパンホラーの成功は、鈴木光司の『リング』に端を発しているが、成功の原因は、それまでの死者の復讐譚だった日本の怪談を、加害者を殺すことで終わりにするものから、怨霊を倒す、または成仏させることで怪異は終わったと思ったものから、実は倒していなかった、成仏していなかったとすることでエンドレスに陥るパターンを作り、後発の作品がそれを踏襲したからである。
ホラー作家といえば、世界ではスティーブン・キングで、私は『シャイニング』を読んだが、『シャイニング』も霊に取り憑かれた父親を息子が倒すストーリーで、スティーブン・キングもエンドレスのストーリーは作れないんだなとつくづく思った。欧米でできるホラーでヒットするのは大抵スプラッタものである。
ジャパンホラーの元となった怪談も、日本の怨霊信仰が、本来非業に倒れた貴人の霊を慰めるためだったのが、江戸時代に入って一般人の被害者の霊を慰めるものに転じたものである。
日本の最初の勧善懲悪の物語は、『南総里見八犬伝である。『八犬伝』以前は鬼退治の物語しかない。
曲亭馬琴も、日本の枠を超えていけるタイプの作家で、『水滸伝』を下敷きにして『八犬伝』を書き上げた。実は『水滸伝』へのアンチテーゼも『八犬伝』にはあるのだが、それはまた後の機会にしよう。
『八犬伝』の後の勧善懲悪ものは『水戸黄門』である。時は幕末、尊王攘夷運動が高まる中で、尊王攘夷の卸問屋の水戸光圀が主人公になり、悪を倒す物語が生まれた。
『水戸黄門』は『八犬伝』のような壮大なストーリーが作られず、『西遊記』と同じ1話完結的なストーリーが作られた。
『水戸黄門』の後に『銭形平次』のような捕物、明智小五郎と怪人二十面相のようなミステリーが作られた。
勧善懲悪で複雑な物語が作られるようになったのは最近のことである。
幕末の尊王攘夷運動以来、日本人は正義のために戦うようになった。
しかしそれも、
で述べたように、秀吉によって体質が変化したのである。
秀吉以前は、武士は一所懸命の精神に基づき、また源頼朝以来の、恩賞のために戦うことで自分の欲望を肯定し、主君から改易されても抵抗することなく城を明け渡すようなことは決してなかった。秀吉以前の武士は、己の欲望があくまで行動の動機だった。
そして「武士に怨霊無し」と言われ、また怨霊を恐れなかった。
秀吉以後、日本人は正しさのために戦うようになった。
幕末の尊王攘夷運動もそうだし、2・26事件の青年将校もそうである。
昭和天皇は歴代の天皇の中でも、より多くを自分で決断した人物で、「君側の奸」と言って政治家達を殺害した青年将校達を自らの意志で討伐した。青年将校達は落胆し、ほとんど無抵抗になった。
問題は正しさが自分から発していないことで、天皇に非承認されると、猛威を振るった青年将校達も無力になる。正しさを自分の中に作っていないからこのようになる。
人間は常に正しく生きられる訳ではない。しかし正しく生きていないからといって行動できない訳ではない。
まず自分のために考えて行動する。そして自分がより良く生きるために、どうするのかを考えて行動する。
それだけで、何かに非承認されても行動できるのである。
世間は様々なものを非難している。いわく岸田首相の息子が首相官邸の階段で寝そべっただの、河野太郎氏が批判者をツイッターブロックしまくっているだの。
そういう「間に合わせの正義」の非難から距離を置こう。「間に合わせの正義」に飛びつかずに、何が正しいかを自分で判断する。間違っているなら間違っていると思って行動する。
それだけで、怨霊に悩まされることはないのである。
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