坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

ひとつの目的のためにひとつの行動しかしない

最近気づいたこと、私は死にたいと思っていない。それも年々、生きる欲望が強くなっているということである。
若い頃はそうでもなかった。死んで楽になりたいと思うことは、若い頃は往々にしてあった。また「死にたい」と思わなくても、「この世に生まれたくなかった」「人生は一度きりでいい」という思いも薄らいでいった。
「何度でも同じ人生を求める」というほど人生を肯定している訳ではないが、「生まれたくなかった」も「人生は一度きりでいい」も、考える必要がないのである。
なぜ私が「死にたい」と思わなくなったかを考えていくと、ただひとつのことに行き当たる。それは「ひとつの目的のためにひとつの行動をする」が、年を取るごとに徹底されていったことである。
「ひとつの行動でふたつ以上の目的を達成する」からこそ合理的なのであり、こういう合理性の最たるものが政治であろう。つまり私は最も非政治的になるように自分の行動を特化してきたということだが、自分と非政治的な人間にするほど、自殺や厭世観とは無縁な人間になっていったのである。
たとえば広島や長崎の原爆で、無数の死体や負傷者を見捨てて逃げたことで、その時人を助けなかったことを悩み、その悩みが強いトラウマとなることがあるが、私は同じ境遇になっても、そのようなトラウマを持たないと断言できる。
そのようなトラウマを持つ人は、よく「自分に幸せになる資格があるか」と悩んだりするが、私は悩まない。なぜそんな風に思うのだろう?身の危険を顧みずに寝ずに救助活動に勤しめば幸せになっていたと思うのだろうか?
「ひとつの行動でふたつ以上の目的を達成する」ができれば、それは幸福になりやすいだろう。多くの人と利害を共有できれば、自分の感じた幸福をより多くの人と共有できることになる。
しかしその考えでは、多くの人との利害がまとまらず、互いに争い合う環境においては、人はたちまち不幸を感じてしまうのである。
もし自分の住んでいる街が戦場で、毎日銃弾が飛び交っていたら、自分は幸せになるべきじゃないとでも思っているのだろうか。
自分の行動がより多くの目的につながるかによらず、また自分の行動が成果を生む生まないによらない。
成果無しで本当に幸福かと言われれば、「日々を楽しめばいい」とこう答える。そしてこれまで同様、「ひとつの目的のためにひとつの行動を取る」を繰り返す。人生とはそういうものだ、と思うから。
人生はそういうもの。人それぞれに人生がある。ならばこの徹底して成果の出ない人生も立派な人生である。
そう、立派な人生である。なぜなら私の人生は、成果と人生の幸福が全く無関係であることを証明するものだから。
もし「ひとつの行動でふたつ以上の目的を達成する」ことで不幸を感じている人がいるなら、その人は人との利害のすり合わせで失敗をしているのかもしれない。
人生のために行動するなら徹底して人生だけのために行動する。他人のために行動する時は自分のことを考えず他人のために行動する。
「ひとつの目的のためにひとつの行動を取る」成果の出ない環境にいると、成果が出る出ないだけでなく、他人がどう思うかも気にする必要はなくなる。ただ自分が自分の目的のために最も合理的な行動を取ったか、そのことで自分が納得できるかどうかが、自分の行動に満足できる判断基準になる。
他人の意見で幸福になったり不幸になったりする必要はないのである。

 

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