坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

聖武天皇は安禄山

安禄山は、国際的な国家唐にふさわしく、ソグド人と突厥人の混血である。ソグド人は中央アジアのオアシスの定住民、またはキャラバンを組んで交易に従事するイラン系の民族で、突厥はトルコの漢音読みである。後のモンゴルの後継国家で、チンギス・ハンに匹敵する大帝国を築いたティムールが都にしたサマルカンドの出身で、安禄山は彫りの深い容貌をしていたようである。

安禄山は6ヶ国語を話し、肥満体で、体重は330斤(役200キロ)あったという。この巨大で、当時の唐の皇帝玄宗の前で胡旋舞を疾風のような速さで踊ったという。後年、西郷隆盛と仲が悪かった島津久光は、西郷を「あれは安禄山だ」と言った。安禄山肖像画があるが、目の大きさが印象的で、性格は全く違うが、風貌や体格は、安禄山と西郷は似ていなくもない。

安禄山

安禄山は器用で多才であった。また残忍でずる賢く、機転が利き、へつらいが巧みであった。はじめは語学力を活かして互市牙郎という貿易官となり、後に軍人に転じた。数騎の軍勢を率いて何十人もの敵を捕らえて戻るのを繰り返し、次第に出世して節度使になった。節度使は簡単に言えば、地方の軍隊の長である。この頃には玄宗にしばしば謁見し、玄宗に気に入られるようになった。ある時、

「その大きな腹には何が入っているのか」

玄宗に問われ、

「この腹には陛下への赤心のみがつまっております」

安禄山は答えた。

安禄山は決して善人ではなく、むしろ悪人だが、その人生からは強烈な生命力、上昇志向といったものが感じられ、様々なエピソードに触れるだけで、圧倒的な存在感を受ける。これもひとつの魅力かもしれない。

またある時、安禄山は太子に拝礼せず、「太子とは何者であるか」と尋ねた。

「世継ぎである」と玄宗が答えると、自分は陛下があるのを知るだけで、世継ぎがあるのを知りませんでした」と述べ、仕方なさそうに太子に拝礼した。玄宗は益々安禄山を信用するようになった。

玄宗が寵愛する楊貴妃に、自らを養子にするように請い、受け入れられると謁見の際は、玄宗より楊貴妃に先に拝礼した。玄宗が訳を尋ねると、「私は胡人(中国北方、西方の異民族)なので、礼は母を先、父を後とします」と答え、玄宗を喜ばせたという(安禄山楊貴妃より16歳年上である)。

安禄山はこのようにして玄宗の寵臣となったが、おかげで楊貴妃の又従兄弟の楊国忠と寵を競うはめになった。

楊国忠安禄山を排撃し、安禄山に叛意ありと玄宗に吹聴した。

楊国忠の策謀をしばしば切り抜けた安禄山だったが、楊国忠が宰相になり、ついに安禄山は決起する。

反乱を起こした安禄山は洛陽を落とし、至徳元年(756年)正月、安禄山は雄武皇帝と称して即位し、国名を大燕とする。そして元号聖武と定める。

聖武である。

時まさに聖武天皇が在世中である。既に譲位しており、この年天平勝宝8年5月2日に聖武上皇崩御する。

まさか聖武天皇諡号安禄山の国の元号から取ったのか?と思うところだが、安禄山の反乱の報は、3年後の759年に、遣渤海使渤海は当時満州にあった国)が帰国した時に日本に伝わったという。

つまりこれは聖武天皇の事績を記した『続日本紀』による、「聖武天皇諡号安禄山の国の元号から取ったのではない」というアリバイ作りである。『続日本紀』は日本の歴史書であり、外国の歴史を記す必要はない。外国で起こった事件を日本人がいつ知ったかなどさらに書く必要はなく、当時は商船の往来もあったので、情報を受け取る手段は遣渤海使だけではないのである。

聖武天皇安禄山である」というのが、『続日本紀』の主張である。



聖武天皇といえば、東大寺の大仏を作った他には、線が細く藤原氏の傀儡となった気の弱い天皇というイメージがあるかもしれない。

しかし私は、線が細いかどうかはともかく、傀儡になるような弱い天皇ではなかったと思っている。

そもそも聖武天皇の時代というのは、天然痘の大流行で735年〜737年の死者は全人口の25%〜35%が死亡したと推計されており、この大量死により農地が放棄され飢饉が発生した。さらに藤原広嗣の乱のような兵乱や、734年の畿内七道地震、745年の天平地震などにより、民力の疲弊はすさまじいものがあった。

このような中で、聖武天皇平城京を捨てて恭仁宮紫香楽宮を建設し、また難波宮にも移転したりした。その上全国に国分寺国分尼寺を建立し、総国分寺として東大寺、大仏及び大仏殿を造営したのである。これほど強大な権力を振るった聖武天皇が、誰かの傀儡のはずがない。

一体何が、聖武天皇安禄山だという原因なのだろうか。

もちろん国分寺国分尼寺で大仏建立などの大事業ではない。

国分寺国分尼寺建立は、中国唯一の女帝で一時唐を中断し周とした武則天が、全国各州に大雲経寺を建立したことのの模倣である。しかし武則天は中国史上で正統な皇帝と認められている人物であり、武則天が設置した悲田養病坊の影響を受けて、光明皇后悲田院、施薬院を設置している。光明皇后藤原氏の出身であり、聖武天皇安禄山だから武則天を模倣したのではない。

「彷徨五年」と言われる、聖武天皇平城京を捨ててから再び平城京に還都するまでの、宮の移転を行幸を続けた時期がある。

東国行幸平城京を出発して伊勢から美濃の不破関関ヶ原)を通過するという経路を取った。このルートは壬申の乱の時の天武天皇の行動ルートと一致しており、また当時藤原広嗣の乱の最中だったことから、天武天皇を意識してこのルートを辿ったのではないかと言われている。

天武天皇天智天皇の近江朝廷に対し反乱を起こしたが、天武天皇が対立した大友皇子は明治まで諡号がなく、天皇として認められていなかった。天武天皇は正統な天皇であり、藤原広嗣もいかに藤原氏の一員としても、広嗣自身が反乱を起こした以上、広嗣の責任を転嫁するように「聖武天皇こそ謀反人」とする訳にもいかない。聖武天皇天武天皇を模倣したのが「聖武天皇安禄山」だという理由にはならない。もっとも聖武天皇は、反体制が権力に挑んで権力を握った人物を特に好んでいたのではないかとはいえそうである。

橘諸兄吉備真備、玄昉などを重用し、藤原氏の権力に挑んだことか?その程度のことは菅原道真を登用した宇多天皇など、他にしている天皇もいる。それでも藤原氏の権力は揺らいでいない。

そもそも天皇の最大の権力基盤というべき公地公民制を突き崩し、荘園制を成立させることになる、墾田永年私財法は聖武天皇の時代に成立したのである。天然痘の大流行で人口が激減し、農村が崩壊しかけているのに班田収授法だけでは、農村は復興できないという判断もあっただろう。それでも荘園制を成立させ、天皇中心の律令国家解体に向けて舵を切ることになった聖武天皇は、安禄山と呼べるようなものでない、単なる政治的敗者にすぎなかった。

 

安禄山聖武天皇崩御の約1年後に失明し粗暴になり、子の安慶緒に殺された。悲惨であり凄惨だが、悪党らしい悪党が、その人生を完全燃焼させたともいえる。

聖武天皇に贈られた尊号は勝宝感神聖武皇帝である。

皇帝である。皇帝とは中国の君主しか称することができない。その皇帝を称したことが、「聖武天皇安禄山である」理由である。

 

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