坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

伊達政宗の晩年

大坂夏の陣により豊臣家が滅び、天下に泰平が訪れた。

伊達政宗は庶長子秀宗の、伊予宇和島10万石の拝領により、天下を諦め、豊臣家滅亡に協力するという、暗黙の約束をさせられた。

伊達政宗騎馬像

徳川幕府長子相続制度を確立させたが、庶長子と次男以下の嫡子のどちらが跡取りとして優越するかの判断まではしなかった。大抵は正室の子が嫡男となるが、お家騒動の元が片付いて、政宗は安堵しただろう。

既に政宗が天下に手を伸ばす目はなくなっていた。全国の枯れた金山銀山を復活させ、徳川幕府に莫大な富をもたらし、自らも人の耳目を驚かせる贅沢をした大久保長安政宗の娘婿松平忠輝の附家老として政宗に接近した大久保長安も既に死んだ。キリシタンの取り締まりも再開された。

政宗は遣欧使節として支倉常長を派遣した。スペインとの軍事同盟と、ローマ教皇政宗キリスト教の王として認めてもらうための使節だったが、往復に何年もかかるうえ、たった一度の交渉で成功するとは政宗も思っていない。キリシタン禁令と政宗の天下取りの資金源の長安の死、そして豊臣家の滅亡により、政宗は天下を諦めざるを得なくなった。秀宗への宇和島10万石は、政宗が天下を諦める堪忍料であり、状況によっては親豊臣に転びかねない政宗が、積極的に豊臣家を攻撃させるための依頼料だった。

この依頼を受けて、政宗真田信繁と戦った。真田相手に勝つことはできなかったが、政宗は徳川への義理は果たしたと思った。夏の陣の後、真田信繁の娘が片倉小十郎重長(小十郎景綱の子)の妻になり、同じく真田信繁の次男守信が伊達家に仕えた。また豊臣家の武将長宗我部盛親の姉妹阿古姫とその息子2人も伊達家に仕えさせている。

また政宗は、誉田村で水野勝成の家中の者3人を同士討ちにし、馬を奪ったが、勝成は伊達軍を待ち伏せて兵を斬り殺し、馬を奪い返した。これは松平忠輝がこれより前、近江守山で将軍秀忠直属の旗本、長坂信時が軍列を追い越したとして斬り捨てにしていたことに、政宗も合わせたのである。

さらに政宗はこの後、豊臣方の武将明石全登と戦う神保相茂家中270人を同士討ちにした。

水野家中を同士討ちにした時は弁明もしなかった政宗だが、神保家を同士討ちにしたのはさすがに弁明した。「神保隊が明石隊により総崩れになり、伊達勢が巻き込まれるのを防ぐため処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」。

 

戦後、松平忠輝は改易となり、伊勢国朝熊、後に信州諏訪に流された。忠輝が政宗を後ろ盾として謀反を起こそうとしたと噂された。

政宗駿府城で家康の事情聴取を受け、家康は忠輝が、豊臣方と政宗が通じていると讒言したと政宗に語り、政宗は否定した。

幕府、いや家康による、政宗と忠輝の離間の策であった。そして政宗は処分されなかった。

徳川幕府といえど、「野党」を完全に弾圧はしない。ただし幕府のお目こぼしを得るには、複雑な条件を満たす必要がある。

御政道批判も親豊臣もアウト。しかしそのどちらにも与せず、天下を狙うことで迷惑な存在になると不思議と生き残ることができる。現代でもあるが、近所や会社の中で決まりごとも守らず文句ばかり言う男がいて、これがどういう訳か、袋叩きにも遭わずに生き残り続けている。こういう男を処罰すると、なぜか周囲の調和を描いてしまう。政宗がそういう人物に当たり、政宗の存在を許すことで、かえって世間の幕府への評判が良くなったりする。

しかも群れなければいい。群れると幕府が警戒する。

加藤清正浅野幸長は今でも暗殺説があるが、とにかく2人の死により、福島正則は孤立した。

幕府は正則に江戸留守居を命じるなど冷遇するが、この時点で、正則は既に幕府の脅威ではなくなっている。

だから正則は、本当は安全だったのである。その正則が没落したのは、孤立して弱気になったこと。もうひとつの理由は、中途半端に豊臣家に肩入れしたことである。大坂の陣で正則は、豊臣勢が福島家の大坂蔵屋敷の米8万石の接収を黙認した。

政宗は陰謀を巡らせたが、幕府が肝を冷やすほどのものはなかったか、実際肝を冷やすほどの陰謀は未然に防がれた。それでいて政宗は、豊臣家絡みの陰謀はひとつも企てなかった。

だから政宗は生き残った。

 

政宗宇和島藩の筆頭家老山家清兵衛を信任していたが、山家清兵衛は藩政を巡り、桜田玄蕃と対立した。しかし秀宗は清兵衛を疎んじ、清兵衛は謹慎する。

元和6年(1620年)、山家邸が襲撃され、清兵衛の一家が斬殺された。秀宗の命による上意討ちだったらしい。秀宗はこの事件を、江戸幕府にも政宗にも報告しなかった。

怒った政宗は秀宗を詰問し謹慎を命じた。さらに幕府に対しては宇和島藩の改易を嘆願した。秀宗は慌てて政宗に釈明の手紙を出したり、舅の井伊直孝に仲介を依頼した。幕府は政宗の嘆願を本気にせず、彦根藩の井伊家や仙台藩の仲介工作で、宇和島藩は改易を免れた。

その3年後、徳川家光が3代将軍となる。

この年、政宗は領内のキリシタンへの弾圧を強め、水沢では87名を転宗させ、数十人のキリシタンを水沢から仙台まで歩かせ、ゆきの中で水の中に座らせて転宗せよと責めた。1人も転宗せず、皆凍え死んだ。

 

遣欧使節支倉常長はこの時期(1620年)に帰国した。

支倉常長

遣欧使節の目的はノビスパン(メキシコ)との貿易、スペインとの軍事同盟、そしてローマ教皇との外交関係樹立により、将来的に政宗キリスト教世界の王とするのを認めさせることにあった。

そのような外交が一朝一夕に成功するはずもないが、政宗はもはや天下を諦め、キリシタン禁令も徹底される中で、常長の盛挙は徒労とならざるを得なかった。常長は帰国の2年後は失意のうちに死去した。

 

寛永9年(1632年)に徳川秀忠薨去して、家光の親政が始まる。

秀吉の天下統一以降、奥州は北に政宗、南に関東の家康を控え、そのどちらにも睨みを聞かせる強い大名を置く必要があり、蒲生氏郷上杉景勝が100万国前後の所領が与えられた。しかし関ヶ原後は徳川の天下となり、政宗がおとなしくなれば、奥州に睨みを利かせる大大名は必要なくなる。

関ヶ原後は、仙台藩の西に最上義光山形藩57万石、そして会津蒲生氏郷の子の秀行が60万石で戻っていた。

その最上家も元和8年に改易となり、蒲生家寛永4年(1627年)に無嗣で伊予に転封、加藤嘉明が40万石で入った。

加藤嘉明

寛永8年、大御所秀忠の庶子で家光の弟の保科正之が信州高遠3万石を相続したが、将軍連枝ということで、より多くの所領を与える必要が生じていた。

 

寛永11年(1635年)、政宗近江国蒲生郡5000石の加増を受けた。この加増により、仙台藩は62万石で確定した。

寛永12年(1635年)に参勤交代制が発布され、有名な「余は生まれながらの将軍である」の発言がなされる。「祖父や父はお前達に遠慮があったが、今後はお前達を家臣として遇する。不満がある者は国元に帰っていくさの準備をするがよい」と家光が言うと、

「命に背く者があれば、この政宗に仰せ下されば直ちに兵を発し、その者を討伐致すでありましょう」と、政宗はいち早く進み出、家光に申し出た。

またこの年は、柳川一件があった年である。

柳川一件とは、朝鮮外交を担当する対馬の宗氏が外交文書を改竄していた問題で、この改竄を対馬藩家老柳川調興が幕府に訴えた事件である。

改竄の内容は、国書の送り主を「日本国源家康」「日本国源秀忠」とするところを、「日本国王源家康(秀忠)」としたことである。朝鮮は朱子学の国で華夷秩序を重んじるので、中国(当時は明)の冊封を受けない国とは本来外交関係を持たないのである。

徳川家は中国の冊封を受ける気がないし、華夷秩序の国の朝鮮相手に天皇や皇帝という称号も使えない(徳川家は天皇でも皇帝でもないが)。だから徳川家は称号を記載せずに国書を送っていたのだが、それでは外交がうまくいかないと、宗家が徳川家を「日本国王」だと改竄した訳だ。

政宗は宗家に味方し、柳川調興を非難した。

宗家は朝鮮と貿易がしたいので、国書を改竄してでも国交を維持しようとする。

柳川は筋が通っているが、幕府は宗家を改易にして、朝鮮と直接に外交をする気がなかった。後に徳川家は朝鮮相手に大君の称号を用いるが、中国の冊封があるか、朝鮮国王とどちらが上かなど、幕府が外交をしない以上、宗家が曖昧に処理するのがベストと判断したのである。

こうなってしまえば、家老の身分で主君を訴えた柳川の不忠は許すべからざるものとなる。政宗の役割は、柳川有罪の世論誘導をすることにあった。

対馬藩宗義成は無罪となり、柳川調興津軽流罪とされた。

宗義成



家光は政宗を気に入り、戦国の古豪として政宗を遇した。

家光には辻斬りの悪癖があり、お忍びで市中に出かけるのを老臣達に心配されたが、家光は聞かなかった。そこで政宗は、

「お忍びで市中を出歩くのは危険ですのでお止め下され。それがしも権現様(家康)の命を狙ったことがござりまする」

と家光に諫言した。

政宗はかつて天下を狙った老獪な武将から、無害な存在、家光の気に入り、引き立て役、道化となっていった。有名な、幕閣相手に相撲を取り、わざと負けたというのもこの頃である。

寛永13年(1636年)5月24日、政宗は死去した。

同年、保科正之山形藩20万石を拝領した。

加藤嘉明会津藩は領内の統治に失敗し、農村は疲弊した。

会津の加藤家は寛永8年(1631年)に嘉明が死去し、嫡男の明成が継いだが、家老の堀主水が出奔しそれを追討するという事件が起こって減封のうえ嗣子を立てるとの幕府の裁定があったが、明成の子の明友は庶子であり、明成は正室を憚って子はないと主張した。明成の正室は保科正直の娘、つまり保科正之の義父の正光の妹である。結局明友が近江水口2万石に減転封されて相続することで決着がついた。この過程は、ひどく策略的である。

保科正之寛永20年(1643年)会津23万石を拝領する。保科家はこの後転封することなく、後に松平姓を名乗って親藩となり、会津松平家として幕末に至る。

保科正之

 

政宗は戦国の古豪として生き残った。天下を狙う者として、天下を狙った者として生き残った。

しかしそれは徳川幕府という強力な政権の元で、幕府に対する自分の役割をアピールしての生存だった。

「天下を狙った者」も、幕府の力が強くなると、手の平で踊らせるにはむしろ都合がよく、幕府、将軍の引き立て役になる。

 

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