坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

日本型ファンタジーになった『GODZILLA 決戦機動増殖都市』(ネタバレあり)

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予告を見た時から予想していたが、『GODZILLA 決戦機動増殖都市』で、アニメゴジラ三部作は日本型ファンタジーになった。 「我々人型種族こそが、ゴジラと呼ばれるに至らなくてはならん」と言っている時点で予想がついて、今回はその確認のために映画を観てきた。 

で、その通りでした。おわりwww 

だと話が短いので書き足さなければならないが、それには今まで触れていない部分にも触れる必要がある。

 

 日本型ファンタジーは、当初私が思っていた以上に構造が定式化している。

 日本型ファンタジーは、序盤から中盤、作品によっては終盤近くまでを「窮迫」と「不信」で構成される。 わかりやすいのが『進撃の巨人』(以下『進撃』)で、巨人に攻め込まれて人間が次々と食われていくのが「窮迫」である。

 『アイアムアヒーロー』では知人やその他何でもない人が次々と襲ってくる。 

亜人』は「窮迫」の性質を良く示している。 亜人と知られた永井圭は人々に追われるが、個人が追われる程度のことは、「窮迫」の表現としては足りないのである。 

「窮迫」の表現のために、亜人の再生能力を利用した拷問が行われる。個人が集団の死や苦悩を代行するのである。 

『東京喰種』は6巻までは日本型ファンタジーと言えないくらい生ぬるいが、カネキが拷問を受けることでガラリと世界観が変わる。 

 

「不信」は『進撃』のアニ、ライナー、ベルトルトが次々と裏切ることで構成される。 エレンは疑うことに抵抗し、裏切られたことに傷つきながら戦うが、最後に「平和主義」というラスボスが現れ生きる気力を失う。

 『アイアムアヒーロー』では鈴木英雄のアシスタント先のチーフアシスタントの三谷が、ZQN化した仲間を返り討ちにしていくが、三谷はそれを楽しんでいる。

 逃げ回る中でZQNに噛まれ、「生きてるって気がしたんだ」と言ったところで、墜落した飛行機に頭を吹っ飛ばされて死亡する。

 三谷は、鈴木英雄の分身である。 鈴木は富士の樹海まで逃げるが、携帯のバッテリーが切れて闇に脅える。 

亜人』では、永井圭が中野や他者へ不信を振り撒いているが、それが自分自身への不信に変わっていく。

 『東京喰種』の「窮迫」と「不信」は何度も繰り返される。最初の「不信」は芳村への不信だが、それも自分への不信に変わっていく。

 「不信」は他者への不信から自分への不信に至るのが、日本型ファンタジーの定型である。

 てこれ、2、3日前に気づいたんだけどねwww 

『怪獣惑星』でくじら座タウ星eに移住しようとした揚陸艇が爆発したのは、ストーリーの伏線ではおそらくなく、「不信」を構成するためのものだと思う。

サカキ・ハルオは仲間を疑った自分を疑い、『決戦機動増殖都市』ではゴジラと戦ったことに疑いを持つ。

 

 『決戦機動増殖都市』で、全ての生物がゴジラになろうとし、全ての生物がゴジラに奉仕しているという。

 これは、『アイアムアヒーロー』の「巣」の発展型である。 「巣」は「女王蜂」の意思で動くが、「巣」の中には強い同調圧力があり、同調しないものははじかれている。 

アイアムアヒーロー』の「巣」も、「個にして全、全にして個」という、『風の谷のナウシカ』の王蟲の発展型である。

 そして今回登場したメカゴジラの残骸は、増殖して都市を形成している。 

メカゴジラはナノメタルでできており、ナノメタルは自律思考金属である。さらにナノメタルは、接触した金属と同化する。 金属だけでなく、人間とも同化する。 まず始めに、合理主義的種族のビルサルドがナノメタルと同化していく。 

ビルサルドは不眠不休でゴジラとの戦いの準備を進めていくが、戦略的失敗も犯している。「増殖都市」はゴジラに見つからないように、特種な霧を発生させていたが、ゴジラとの戦いの準備にエネルギーを回すために、霧の発生を止めるのである。

 「増殖都市」は自律思考により進化する。

『GODZILLA 怪獣惑星』 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で感じた、私の直感は正しかった。

個体での進化の否定が『決戦機動増殖都市』のテーマに組み込まれている。 

作戦通りに事が進んでも、ゴジラを倒せない。ビルサルドの提案は、ナノメタルと同化した上での戦闘機ヴァルチャーでの「特攻」だった。

 これは合理主義とは言い難い。合理主義に似せた、人間性の否定を意味していると思う。 

ゴジラと「増殖都市」は、ほぼ同じもののように見えて、わずかに違いがある。

 『怪獣惑星』のゴジラは、植物から進化したゴジラアースの亜種だという。 ゴジラを頂点とした生態系には、同調圧力がなく、むしろ超人思想の反映と見るべきだと思う。 対する「増殖都市」は、合理主義に似せた同調圧力と「進化」を同じものとしている。そして「増殖都市」の力でゴジラを倒してはいけないとしているのである。 

今後のヒントとしては、今回登場した人類の末裔の「フツア」が鍵となるだろう。 

「フツア」には虫の遺伝子が混ざっているという。『テラフォーマーズ』である。どの道を選択しても、「人間=怪物」の構図からは逃れられない。

 

 ヒロインのタニ・ユウコは、ビルサルドの提案によりナノメタルと同化しそうになり、ハルオが指令部を破壊して同化を止めるが時既に遅く、ユウコは死ぬ。

 この悲劇的展開は、実は日本型ファンタジーにおいては頻繁に見られる展開なのである。 

ユウコが何者かを判断する情報は少ない。ビルサルドが造ったヴァルチャーと相性がいいこと、ハルオが「フツア」の双子の巫女に好意を見せると嫉妬したこと。機械に囲まれた環境が落ち着くこと。ビルサルドの判断に同意したことである。

 これで充分に判断できる。ユウコは「世界の運命を決めるヒロイン」である。 

ナウシカ』や『まどかマギカ』で活躍した「世界の運命を決めるヒロイン」は、男が活躍するようになると二つに分化した。

ひとつはそのまま「世界の運命を決めるヒロイン」の属性を維持したが、分化した方は「見棄てられたヒロイン」となった。

 「見棄てられたヒロイン」は、『君の名は』の宮水三葉、『僕だけがいない街』の雛月加代、『東京喰種』の霧嶋菫香、笛口雛実、カナエ・フォン・ロゼヴァルト、『進撃』のミカサ、『いぬやしき』の渡辺しおんなどである。

 彼女達には「見棄てられた」印が必ずついている。そして誰に見捨てられたかといえば、根本的には父親に「見棄てられ」ている。

 一方の「世界の運命を決めるヒロイン」は、あるスクールカーストと同一化した。それが「クィーン・ビー」である。

『進撃』のヒストリアは巻末の『進撃のスクールカースト』ではまさに「クィーン・ビー」であり、『アイアムアヒーロー』の早狩比呂美は「女王蜂」である。『東京喰種』の芳村エトは、相当に「クィーン・ビー」の性格を発揮している。

 「世界の運命を決め」ずに、「クィーン・ビー」として登場するキャラもいる。『君の名は』の奥寺ミキ、『東京喰種』の伊丙入、『いぬやしき』の犬屋敷麻理などである。 

「世界の運命を決めるヒロイン」と「見棄てられたヒロイン」の区別は必ずしも明確でなく、ヒストリアもクリスタ・レンズとしては「見棄てられたヒロイン」である。どちらも「見棄てられ」ており、救済の対象だが、救済には優先順位があり、特に両者が対立すると、「クィーン・ビー」は報復を受ける。『君の名は』に、ストーリー上必要のない奥寺ミキが登場するのはそのためであり、奥寺ミキは瀧に「フラれた」のである。 

『決戦機動増殖都市』では、ユウコが「フツア」の双子の巫女と対立した。彼女達が「見棄てられたヒロイン」であり、ユウコはその報復を受けたのである。

 もっとも逆のパターンもあり、『いぬやしき』では犬屋敷麻理が救済され、渡辺しおんが救われない。それは『いぬやしき』が、父親復権の物語だからである。ならば父親復権の話でない他の日本型ファンタジーは…?

 

 次作『星を喰う者』では、エクシフを滅ぼした、ゴジラでさえものの数ではないという、「ギドラ」が地球に飛来する。そして「フツア」が守っていた卵「モスラ」も。 

 

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リベラルは日本の恥

韓国はなぜ反日なのか? - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた時、暴走して韓国人と口論を始める者が出るのではないかと心配したが、まさかPVが下がるとは思わなかったwww。

 ナショナリズムが上等なものだと思ったことは今まで一度もないが、ナショナリズムが正しい理由として最近気付いたのは、それが自然だからである。上等も下等もなく、自然である以上それは真実であり、自然なものを無理に排除すべきではない。

 国際人についての議論も、ナショナリズムに似ている。

 国際人に必要なのがその国の文化の素養であるというのは、その国の国民として以前にその人の人物を外国人が見てくれるわけがないからである。

だからその国の国民としてより個人として見て欲しいなら、国際人を目指す必要はないが、国際人が必要なのは変わらない。 

前述の記事でにナショナリズムが発揮されなかったのは、現状が自然な状態でないからだろう。「国民」の形成に失敗してるんじゃない?


野党6党は森友・加計、そして福田財務次官のセクハラ疑惑への政府の対応を理由に国会を欠席した。審議の内容は働き方改革法案、正規、非正規労働者の同一賃金、同一待遇に関する法律である。 

これがリベラルの本質である。弱者の味方のふりをしても、結局は非正規労働者の敵である。 

そもそも、働き方改革について盛んに唱えていたのはリベラルである。

 働き方改革で残業を減らしたり、有給を多く取ったりするといっても、残業が減って収入が減るわけにはいかないので、収入を上げなければならない。

 収入が減って生活に困るのは非正規労働者に多いから、正規、非正規の同一賃金は当然である。 

雇用形態の多様化は、企業のニーズとのミスマッチを招く。だから必然的に失業率は高くなる。

 失業率が高くなれば、社会のセーフティネットが必要になる。

失業保険も現状でいいはずがないし、生活保護も規準を緩和しなければならない。つまりセーフティネットの規準を厳しくして支出を減らそうとするのではなく、規準の緩和が重要になるのである。ベーシックインカムの議論が出るのも当然である。

 失業率が高くなっても、それが労使のニーズのミスマッチが原因なら、企業は人を雇わないわけにはいかない。 そのミスマッチを埋めるのが外国人労働者である。

 つまり働き方改革、同一賃金、同一待遇、失業者のセーフティネットの拡充、外国人労働者の導入は全て一貫して行うもので、どれかひとつ欠けていいものではない。

 それなのにリベラルは明日にも残業がなく、有給を取りまくれるような社会になるように謳いながら、同一賃金、同一待遇は表面賛成、内心反対、生活保護も削られているのに特に動かず、外国人労働者就労ビザを増やさずに技能実習生などの期間制限で対応するのを放置する始末である。 期間制限なら派遣も三年以上同一業務につけない点では変わらないが、それを延長できる派遣の組合ができるのは絶対嫌。こうして派遣を外国人労働者と同一に扱っている。

 派遣の地位の向上だけでなく、外国人労働者も移民政策を含めて待遇を改善しなければならない。そうしなければ将来、アジア諸国に競争力で負ける。いやもう負けている。 


野党が欠席した時、私は日本人として恥ずかしかった。 

私はもう安倍政権を支持できない。

私にとって利益になる同一賃金、同一待遇を決議してくれてもそれは変わらない。 恥ずかしいのは、支持できない安倍政権でなければ、同一賃金、同一待遇を実現できないという現実を突きつけられたことである。

 安倍政権は一度働き方改革で失敗している。

裁量労働制のデータが一例しかなかったことを指摘されたため、法案を取り下げたのである。

自民の支持母体の経団連はやはり、本音では働き方改革に反対なのが、この動きでわかった。

 一方、森友、加計学園問題で、安倍政権の支持率は下がり続けた。支持率が下がりきったところでの同一待遇、同一賃金である。自民の支持率が下がれば、経団連にとっても不利益になる。ここで安倍政権に反対するわけにはいかないのである。

 安倍首相は我田引水なところはあっても、根本に百年の計をたてるような愛国心があることを認めざるを得ない。非正規の待遇改善に、野党はあてにならないのである。

 それでも安倍政権は支持できない。それが非常に恥ずかしかった。

 もちろん政権を担わなくても、野党の側から審議に参加することはできる。しかし野党は欠席した。審議に出席した長島昭久氏、細野豪志氏、維新の議員は、私の恥ずかしさをわずかにぬぐってくれ、感謝するしかない。 


今野党は審議に出ているが、加計学園問題での柳瀬元秘書官の国会招致を安倍政権が認めたことで、野党が出席に応じたからである。 

しかしこれが曲者である。森友、加計と並び称されるが、真実は森友の方が問題が大きいのである。

 加計学園問題は、どれほど掘り下げても縁故人事にすぎない。しかし森友問題は収賄に発展する可能性があるのである。

 収賄罪は、公務員が賄賂を受け取る、または要求することで成立する。

 昭恵夫人は公務員ではない。共犯の場合も賄賂を要求した相手方を指すので、配偶者を介した賄賂の授受は現行法では問題にならない。 判例があれば別だが、刑事犯の起訴は検察が行うので、現行法に照らして違法性がない事件を政府の息のかかった検察が起訴するはずがなく、従って判例もないはずである。唯一刑事事件に発展させる方法が昭恵夫人の証人喚問だが、これは安倍首相が拒否した。

 結局法改正をするしかないのだが、それを国民が望んでいない。

 マスコミは安倍首相の収賄の可能性について一切語らないが、それは国民が望んでいないからである。

法改正で「今後はダメ」とできるかどうかの加計学園をエサとして与えられて満足している。森友問題で安倍政権を追求したければ、加計学園問題であまり騒いではならないのである。

 柳瀬元秘書官の国会答弁がまた批判を浴びているが、そうして森友問題から意識を逸らして、本音では反対の正規、非正規の同一待遇、同一賃金を野党に認めさせるための「闇取引」を成立させるのが、安倍政権の狙いである。

 

相変わらずの石平節ですねぇ。

安倍政権の狙いに野党が乗って、石平氏が混ぜっ返して、真相からどんどん遠ざかっていく。 


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日本型ファンタジーの誕生⑯~『進撃』6.新しい日本人の創生

進撃の巨人』(以下『進撃』)16巻で、ケニー・アッカーマンの祖父は「その中枢を占める家々以外にあたる大半の人類は、一つの血縁からなる単一の民族であり、壁の中には大多数の単一民族と、ごく少数のそれぞれ独立した血族が存在する」ことを明かした。 今では「大多数の単一民族」がエルディア人であることが明らかになっている。 

「ごく少数のそれぞれ独立した血族」が非エルディア人で、非エルディア人は「始祖の巨人」の記憶の操作を受けない。だから王が過去の歴史を根絶やしにするという理想を叶えるためには、巨人の影響下にない「少数派の血族」が自らの意思で黙秘しなければならない。

しかしアッカーマン家と「東洋の一族」は王の思想に異を唱えて、その地位を捨てた。


 『進撃』13巻で、エレンの中にいる、「始祖の巨人」の元所有者で、ヒストリアの姉のフリーダの記憶が甦る。

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エレンはフリーダをヒストリアと間違えそうになるが、読者にはエレンが女装したようにしか見えないだろう。

 エレンとその母のカルラ、ヒストリア、フリーダは顔立ちと眼の色が同じであり、エレンとヒストリアの関係は近親相姦を暗示している。

つまりエレンの伴侶的存在はやはりヒストリアで、ヒストリアが『進撃』のヒロインなのだと思う。


 ならばミカサはヒロインではないのかというと、そうではなく、ミカサもヒロインなのである。 

リヴァイによれば、アッカーマン家の人間は、「ある時、ある瞬間に、突然バカみてぇな力が体中から湧いてきて、何をどうすればいいかわかる」という。 

アッカーマン家の人間の覚醒は超人の暗示であり、「何をどうすればいいかわかる」とは人間の完成を意味している。

 ミカサはアッカーマン家と東洋人の混血で、東洋人が「ヒィズル国」の人間であることがわかっている。東洋人とは日本人のことである。

 「人間=怪物」の構造を持つ日本型ファンタジーのうちのいくつかの作品は、「人間=怪物」から「怪物でない人間」へと変化していく道筋が用意されている。ずっとそうではないかと思っていたが、『東京喰種』の最近のカネキを見て、そう確信するに至った。

 『いぬやしき』で、犬屋敷壱郎が「あなたは今まで会ったことあるどの人より人間らしい人間です」と言われるのもそうである。

 え?『いぬやしき』はSFじゃないかって? 

いぬやしき』は日本型ファンタジーですよ。犬屋敷の頭が割れる笑えるシーンは、かっこいいロボットじゃなく、滑稽な「怪物」を表すものです。 

アイアムアヒーロー』でも鈴木英雄はZQNにならなかったが、その理由が鈴木が心を閉ざしていたため、ZQNと同調しなかったためで、最後に鈴木が孤独になる原因となっている。


 日本型ファンタジーには、マキャベリスティックに展開する作品と、非マキャベリ的な展開をする作品があるが、前者のマキャベリストが後の者に道をつなぐ役割をはたしており、マキャベリストは非業に倒れる。マキャベリストのの後を継ぐ者が「怪物でない人間」になる。

 『進撃』23巻で、アッカーマン家が巨人化学の副産物であることが明かされる。 

「巨人化学の副産物」とはどういうことかはわからないが、アッカーマン家は「少数派の血族」でもエルディア人ということになる。 

『進撃』のこの構成は、新しい日本人の創生の試みである。古い日本人がエルディア人で、新しい日本人が東洋人とアッカーマン家の混血なのである。 

今エレンはエルヴィン並のマキャベリストだが、本来マキャベリ的なリヴァイがマキャベリ的にならずに、ストーリーが展開するとすれば、ミカサの伴侶的存在はリヴァイになる可能性が高い。 


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実は集団的自衛権を容認していた希望の党

今年の初め、橋下徹氏と長島昭久氏が、希望の党憲法改正についての議論をツイッターで行っていた。



 

これ魚拓。
https://megalodon.jp/2018-0508-1503-55/https://twitter.com:443/nagashima21/status/957181923620569088?s=19
希望の党は護憲に転じたはずでは?



 

これ魚拓。
https://megalodon.jp/2018-0508-1456-51/https://twitter.com:443/hashimoto_lo/status/957192003107700736?s=19
希望の党憲法改正案は、突き詰めれば九条二項の削除を目指す維新と同じだと言っているのである。なぜこれほどまでに見解が違うのか?
長島氏が自衛権について触れているのに注目しよう。
「議論することが確認された」とあるので、これはまだ議論の途中という意味である。やはり玉木代表の主張とはかなりズレがある。
どうすればこのズレが埋るのか考えてみよう。希望の党は、その内幕をばらしていないと考えればいい。
希望の党は、集団的自衛権違憲としない決定をしたのである。
その理由は、長島氏が砂川判決を盾にとったからだろう。砂川判決から見て、集団的自衛権違憲とする方が違憲な解釈である。
政治家は、あまり砂川判決について触れない。このシナリオを描いたのは橋下氏の可能性が高い。

こうして、長島氏と橋下氏は、希望の党が護憲に流れるのを防いでいた。
今回、民進党と合流してできる国民民主党は、やはり集団的自衛権違憲とする党になるだろう。護憲派は何も議論できないくせに、実にしぶとい。

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セクハラ発言の内容を語らない者達

財務省の福田事務次官のセクハラ疑惑で、財務省が「被害者に名乗り出ろ」と述べた時、私は「これはあまり問題じゃないんじゃないか?」と思った。 その後に「被害者の個人情報の保護に最大限努力する」と言ったからである。しかし多くリベラルは、財務省に反発した。

 ここに保守とリベラルの根本的な違いがあり、保守とリベラルの違いは気質にある。 リベラルとは法概念自体が感情と同一化したような気質の人々のことであり、私などはこのようにはいかない。 

 

福田次官のセクハラ疑惑をネットで調べていた時、妙なことに気付いた。

どのようなセクハラ発言、行為があったかがごっそり抜けているのである。 私はテレビを見ていないので、ネットを中心に情報収集をすると、よくこういうことがある。

 どのようなセクハラ発言、行為かは重要な情報で、それなしには福田次官をクロとするわけにはいかない。

 やむを得ず、重要な情報抜きで情報収集するはめになった。 その中で参考になったのがこれ。

福田財務次官の問題に橋下徹氏が持論「セクハラと認めないって凄い」 - ライブドアニュース

要するに記者クラブのような体質が原因ではないかと言っている。

 

 他の記事を見ていくと、福田次官に批判的な記事が多い。

www.yomu-kokkai.com

引っかかったのは、「財務省にセクハラを認めさせるための#metoo」だということである。 判定は証拠を付き合わせてやるもので、集団による圧力は判定の手続きとして不当である。

nyaaat.hatenablog.com

具体的なセクハラ発言について書かれているかと思えばそうではなくて、「肩をもむのはセクハラか」という例え話だった。

立場の上下がセクハラとそうでないものの線引きだとして、それはその通りだが、具体的な話がないだけに賛同しきれない。

 

 大なり小なり、福田次官に肩入れしているものもある。

tyoshiki.hatenadiary.com

ではテレビ朝日の態度に疑念ありとしている。

lullymiura.hatenadiary.jp

では、「被害女性記者は名乗り出るべきだった」としている。 

 

じゃあ具体的なセクハラ発言を書いている記事はなかったのかというと、あった。

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www.nakajima-it.com

に画像が貼ってあって、「キスする?」という福田次官に 「じゃあキスする記者になんかいい情報あげようとは思わない?」と返している。

てかこれ色仕掛けじゃね!?

 

福田次官のセクハラ疑惑は、冤罪の可能性が高い。

 日本人が皆エスパーになったように、揃ってセクハラ発言の内容を語らないのは、被害女性記者が色仕掛けをしている点に触れずに、福田次官を陥れたいからである。

 もっとも私は、色仕掛けが女性記者のキャラだとは思っていない。問題は記者クラブ的な体質にあり、それがテレ朝が財務省への抗議に乗り気でなく、女性記者が週間新潮にリークするいきさつとなっている。 

「とにかく謝れ」というのは、日本ではよくあることで、白黒つける前に謝罪させるのである。私も子供の頃、自分は悪くない(と思う)のに、母親に謝るように諭されて火だるまになったことが何度もある。

 日本人は、謝罪させるとその残虐性の限りを尽くして謝罪した人物を社会的に抹殺する。 むしろ正しさの根拠が相手の謝罪にしかない場合が多いので、謝罪した人物が再び頭をもたげてこないように徹底的に叩く。

 桝添元都知事が辞職する時に謝罪の記者会見を開かなかったことで批判を受けたが、賢明な処置である。桝添氏の態度が、これからの政治家の辞職のスタンダードになるだろう。

 

 「リベラルは法概念自体が感情と同一化したような気質」だが、そこに欺瞞が含まれることが多い。 

リベラルが被害者に名乗り出させようとせずに財務省と福田氏を糾弾したのは、記者クラブ的体質を守るためである。

この記者クラブ的体質に様々な利権が絡んでおり、その利権の頂点に経団連と労組の共犯関係による中間階級の利害がある。 経団連と労組の利権の一番の被害者が派遣社員で、リベラルは派遣に同情的なふりをしながら、おとなしく野垂れ死んでくれないことに苛立っている。 

 

三浦瑠璃氏は今回の#metoo運動の高まりを賞賛したが、三浦氏の事実誤認か社交辞令だろう。

 この件でリベラルは敗北、後退したのである。リベラルが無理な糾弾をしたために、政府が強引に事態を隠蔽する先例を作ったというのが、今回の事件の真相である。福田氏は冤罪の可能性が高いが、今後より加害行為が明確なケースも政府が隠蔽に成功する可能性が高まる。 

リベラル及びフェミニズムは、被害女性記者を援護するふりをして記者クラブ的体質に踏み込もうとせず、被害女性記者を見棄てた。 

麻生財相が「被害者に名乗り出ろ」と述べたのが、名乗り出てきたら記者クラブ的体質にメスを入れる覚悟で言ったのなら、一種の「英断」と言える。今麻生財相は言いたい放題だが、そうなったのはリベラルが悪いのである。 

今回、冤罪の可能性を示唆した者は良し、そうでない者はただの政府との共犯者である。 

 

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善悪の逆転

f:id:sakamotoakirax:20180430114627j:plain ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフは殺害目的のアリョーナ・イワーノヴナに加えて、殺害現場を見られたアリョーナ・イワーノヴナの妹のリザヴェータをも殺してしまう。 

リザヴェータはすっかり姉の言いなりになっており、姉のために昼も夜も働き、家では料理や洗濯もやり、もらった金は全部姉に渡していた。

典型的な人に利用される被害者で、そのことを象徴するのが、リザヴェータが年中妊娠しているという事実である。

 テーマが「罪と罰」である以上、殺人は一人で充分なはずなのにドストエフスキーラスコーリニコフに二人殺させたのである。 

この点について、文学界でも議論があるようで、『謎解き罪と罰』で江川卓は「リザヴェータを殺さなくても、ラスコーリニコフは改心した」と言っていたが、そんなことはない。ラスコーリニコフはリザヴェータを殺さなければ改心できなかったのである。


 ラスコーリニコフの思想は二つあり、一つ目が「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」というものであり、二つ目が「《非凡》な人間はある障害を、それを要求する場合だけ、踏み越える権利がある」というものである。

「権利」といっても公式の権利ではなく、それを自分の良心に許す権利があるとする、いわゆる超人思想である。二つの思想と述べたが、後者が前者を補完することで、ひとつの思想となっている。

 アリョーナ・イワーノヴナを殺害し、アリョーナ・イワーノヴナの金を盗んでその金で事業を起こして社会に善行を施すというのが、ラスコーリニコフの計画だった。

 しかし犯行ののち、ラスコーリニコフはその金に手をつけることなく自首している。

 そもそもラスコーリニコフがアリョーナ・イワーノヴナを殺害相手に選んだ理由は何だろうか?

その理由は、アリョーナ・イワーノヴナが強欲な金貸しだからである。 

アリョーナ・イワーノヴナは期限を一日でも過ぎたら、質をたちまち流してしまうし、値段の4分の1しか貸さないで、利息は月に五分、ひどい時には七分もとるという。 そしてリザヴェータをしょっちゅうひっぱたいたりしている。 それがラスコーリニコフが、アリョーナ・イワーノヴナを殺していいと思った理由である。

しかしアリョーナ・イワーノヴナの悪事は主観的なものでしかない。確かに利息は高いが、それは我々の相場から見てである。我々は19世紀のロシアの相場を知らない。

ひょっとしたら、利息は当時のロシアの標準から大きく離れてはいないかもしれない。大部時代が離れているが、中世のヨーロッパでは、利息が五分というのは当たり前だった。

19世紀といっても、五分の利息を法で規制しないほどには中世寄りなのである。値段の4分の1しか貸さないのも、利息が高いのに多くを取ったら取りっぱぐれるからだろう。質を流すのは、ひょっとしたらそれが一番の狙いかもしれないが、中古品に高い値段がつかないと考えれば、質にそれほどの値打ちがあるわけではなく、ただ合法的に儲けを増やしているだけである。「期限までに返済しない者が悪い」とも反論できるのである。

 アリョーナ・イワーノヴナのような金貸しは、ロシアのそこら中にいたのではないかと思う。

そのような金貸しの多くが生きていて、アリョーナ・イワーノヴナのみが「殺していい」、「死ぬべき人間」とするのは、ラスコーリニコフの主観でしかない。 

主観である以上、その主観は変動する可能性がある。アリョーナ・イワーノヴナより罪の軽い者、しかも合法的な悪事を犯す者を「死んで当然」と思うようになる可能性があるのである。 


ラスコーリニコフの信念は、リザヴェータを殺したことで犯行直後に崩れた。

 ラスコーリニコフマルメラードフが死んだときに、20ルーブルをカテリーナ・イワーノヴナに渡すが、その「善行」によっても信念を立て直しきれない。

ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンが娼婦のソーニャを侮辱したのに、「あなたが石を投げつけたあの不幸な娘の小指の先にも値しない」とルージンに返してやっても、ラスコーリニコフはさらに追い詰められて、ソーニャの家に行ってソーニャを言葉責めにする。義母のカテリーナ・イワーノヴナは肺病を病んで長くない。カテリーナ・イワーノヴナが死ねば、幼い、ソーニャの血のつながらない弟妹達は路頭に迷う。

 ソーニャは抵抗するが、ソーニャの反論は反論になっていない。全てラスコーリニコフの言うことが正しく、ソーニャは完全に論破されたのである。

 しかしラスコーリニコフは、ソーニャを論破した後に、ソーニャの足にキスをする。そしてソーニャに、聖書の「ラザロの復活」を読んでくれるように頼む。 

「ラザロの復活」は、肉体の死と精神の死が別のものであるのを示すものであり、人々に現実に屈してはならないことを説くものである。

 「現実に屈する」とは、ひとつは隷従である。

隷従を象徴するのがラスコーリニコフの妹のドゥーニャで、金のために結婚という名の「召し使い」を求めるピョートル・ペトローヴィチ・ルージンと結婚しようとする。ドゥーニャはラスコーリニコフがルージンを追い返すことで隷従から解放される。

 もうひとつが、「踏み越える」ことである。ラスコーリニコフがアリョーナ・イワーノヴナを殺したように、法を、倫理を踏み越えていく。

「踏み越える」ことは、隷従と対置され、同列に置かれている。「踏み越える」ことは、現実を超えるのではなく、「現実に屈」したことを意味するのである。


 紆余曲折があって、ラスコーリニコフはソーニャに罪を告白する。

 「僕はナポレオンになりたかった」とラスコーリニコフは言う。しかしそう言うラスコーリニコフが、自分がナポレオンでないことをまた感じていた。

ぼくが、権力を持つ資格があるだろうか、と何度となく自問したということは、つまりぼくには権力を持つ資格がないことだ、ということくらいぼくが知らなかった、とでも思うのかい?また、人間がしらみかなんて疑問を持つのはーーつまり、ぼくにとっては人間はしらみではないということで、そんなことは頭に浮かばず、つべこべ言わずに一直線に進む者にとってのみ、人間がしらみなのだということくらい、ぼくが知らなかったと思うのかい?ナポレオンならやっただろうか?なんてあんなに何日も頭を痛めたということは、つまり、ぼくがナポレオンじゃないということを、はっきり感じていたからなんだよ……

 

つまり、悪魔のやつあのときぼくをそそのかしておいて、もうすんでしまってから、おまえはみんなと同じようなしらみだから、あそこへ行く資格はなかったのだ、とぼくに説明しやがったということさ!悪魔のやつぼくを嘲笑いやがった、だからぼくは今ここへ来たんだ!お客にさ!もしぼくがしらみでなかったら、ここへ来ただろうか?いいね、あのとき婆さんのところへ行ったのは、ただ試すために行っただけなんだ……それをわかってくれ!

 

ラスコーリニコフの思想は、《非凡》な人間は「踏み越える」権利があり、その「権利」とは良心に許すことだった。

しかし《非凡》なナポレオンは、そんなことを考えもしない。 

良心がないのではない。《非凡》な人間は、自らの良心に許さずに、「踏み越える」ことができるのである。だから理論上、ナポレオンもまた「現実に屈した」者である。

 ここに、マキャベリズムとモラリズムの決定的な違いがある。

マキャベリズムとモラリズムは、同じ「生の意思」から出発しながら、その後永久に交わることはないのである。 

もしラスコーリニコフがリザヴェータを殺さなければ、ラスコーリニコフはこのマキャベリズムとモラリズムの違いについて、永遠に理解しようとはしなかっただろう。自分が善人だと思おうとしてアリョーナ・イワーノヴナの非を自分の中で増幅させ、それ以外の人々をも悪とみなし、マキャベリズム、そしてそれと親和的な合理主義を持たない者を非モラル的な人物として批難するようになっただろう。

 ラスコーリニコフがソーニャを言葉責めにするのは、ソーニャに家族を捨てさせて、ソーニャを堕落させるためである。

 未来のない家族を捨てるのが、堕落なのである。

モラルとはそれだけ厳しく、ほとんどの人には実行できない。

その実行できないモラルが大事なのは、モラルが単に実行できないという理由だけで捨てられれば、本当にモラルが無くなってしまい、善悪がほとんど逆転してしまうからである。

 ソーニャもまた「しらみ」である。しかしソーニャには神がいた。ラスコーリニコフはソーニャの中の神に屈し、「ラザロの復活」を読ませたのである。 


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保守とは何か~アメリカの奴隷解放宣言から考える

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保守とは何かを考えてみようと思う。
保守の定義として一般的なのは、「伝統、慣習を重視する立場、傾向、思想」とされるが、伝統、慣習が今ほど壊れている時代はない。
伝統、慣習の危機は昔から言われてきたが、今は伝統、慣習に対する尊敬が全くないのである。
保守は人々を説得する言葉を失い、意見を述べる際の理論を多くリベラルから借りている。
しかしそれが一見人権を唱えているように見せながら、その実他人の人権を奪うために人権を振りかざしていることが多いのだから、保守はそのほとんどがペテンに陥っていると言っていい。

ここでひとつ例を挙げよう。学生時代を通じて人をいじめていた者がいるとする。
この人物が『ネヴァー・エンディングストーリー』と『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『ベスト・キッド』を何の屈託もなく見ていたら、さすがに奇異に思うだろう。「自分が悪役になっていると思わないのか」と思うからである。
しかし、現実にはそういうことはよく起こっていると思う。それだけ人は自分を客観視できない人間だというのが理由のひとつだが、自分をいじめとは無縁と思わせるものがあるのである。それがアイデンティティである。

ここでもう一度、保守の定義を考えてみよう。私の定義は、保守派にとって抵抗のあるものである。
保守とは人間の感情、それもより多く負の感情に根差した傾向であり、そのために本来、ほとんど理論を形成しない。
一方リベラルは、やはり感情に根ざしながらもそれが従来の感情でなく、多数派を形成しにくいためにリベラル自体が理論形成を必要としており、そのため必然的に正の感情のみでリベラルは形成される。
どの国でも、保守は多数派であることが多く、保守政権の歴史が長いが以上のことを考えれば、保守の歴史の長さとは逆に、保守は歴史的に、常にリベラルの敗北者である。
しかしそれ故にリベラルは社会を分断するのに対し、保守は社会を統合するのである。少なくとも社会を統合する機会は、リベラルより多く保守に与えられる。

ここで、アメリカのリンカーンが行った奴隷解放宣言を考えてみよう。
ここではリンカーン共和党の政治家であり、元来奴隷解放論者でなかったという点で保守とする。どこかでも書いたが、個人が保守かリベラルかを厳密に区分けするのは不毛なことである。
そして奴隷解放宣言を見ると、これが我々の知っているものとは随分違うのである。
奴隷解放の摘要範囲は、「これから制圧する南部連合地域」で、既に制圧した地域と連邦に帰属していた奴隷州は摘要除外とされた。
奴隷解放宣言は、南部の労働力を減らし、また戦費を国際的に調達するため、南部を国として認めさせないために布告された。現実的対応の産物である。
しかしその現実的対応が奴隷解放運動を盛んにし、1865年にはアメリカ合衆国憲法第13修正が承認され、奴隷性が廃止されたのである。

リンカーンは、アメリカ大統領の評価ではトップ3に入り、一位になることも多い。
対立した南部でも、リンカーンの評価は高い。
私はここに、南部人の欺瞞を感じている。
南部はしばしば「南部の大義」を唱え、また黒人差別の強い地域である。
しかし「黒人を奴隷に戻せ」というレイシストはいるだろうか?私はアメリカ人ではないので断言はできないが、今までに聞いたことがない。
「南部の大義」とは、リー将軍銅像を建てたり、黒人を差別するのが精々なのである。
南部人がアメリカ連合にアイデンティティを持つことはない。南部人のアイデンティティは、奴隷を解放したアメリカ合衆国にある。
南部人が黒人を奴隷に戻したいと思い、アメリカ連合にアイデンティティを持っていたら、アメリカは常に分裂の危険にさらされているだろう。
そうならないのは、南部人のアイデンティティアメリカ合衆国にあるからで、「南部の大義」などは、「負けた腹いせ」程度のものにすぎない。
歴史は、あまりに強烈に革新的な道を辿ると、もう後へは引き返せなくなる。その後は反動化も差別主義者も、その革新的な時代を自らのアイデンティティにするしかなくなるのである。

南北戦争前史で「ミズーリ協定」や「カンザスネブラスカ法」などというのを、大学受験で習ったのを覚えている人もいるだろう。そしてほとんどの人は、内容はちんぷんかんぷんだったと思う。
「いや、内容を覚えている」という人は偉いが、ここで言いたいのはなぜこのような法律ができたかである。
ミズーリ協定」は新規の州が奴隷州になるのを制限する法律であり、「カンザスネブラスカ法」は「ミズーリ協定」を破棄して、奴隷州になるかはその州の判断に委ねるという内容である。なぜ「ミズーリ協定」は奴隷州を制限しようとしたのだろうか?
南部では農業中心のため奴隷が必要であり、工業中心の北部では奴隷が必要でなかったというのは、南北戦争史の常識である。
その奴隷の必要の有無が、北部の人々の意識を変えたのである。それは戦争前に、連邦制の前提を揺るがせかねないほどのものだった。エマニュエル・トッドアングロ・サクソンの人種主義が進化の可能性を持ち、「1850年以降は、この人種主義がひとつの変容プロセスの中に突入し、普遍主義的価値の発見に辿り着いた」と指摘している。

よく「差別は無くならない」と、不条理が無くならないことで全てのリベラル的な意見を否定しようとする人がいるが、その人は根本的な間違いをしている。
多くの不条理を支えているのは、しばしばリベラルな見解を含めた、多くの「善行」にある。「善行」は、不条理を促進しようとする人々のアイデンティティを形成し、それによって自らを善人と見なし、善人である自分に安堵して、迷いなく不条理を促進しようとする。そしてそのような善行が行われないと、負の感情を持つ人は、そのため迷いが増え、「自分らしく」生きられなくなるのである。