坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

共依存社会

私の母は、私がいじめやその他の社会的に理不尽な目にあっても、一度も私の味方になったことがなかった。必ず世間の味方をして、反抗すれば私は必ず悪者のように扱われていた。

 それだけなら、私も親に反抗して、早い段階で自我を確率することができたかもしれないが、毒親とは子供を一歩的に虐待するものとは限らない。

 私は家の中では、かなり優遇されていたのである。家の中で優遇され、社会、世間的に冷遇されるという親の態度の使い分けによって、私は不当に扱われていることに気づけなかった。 そして私を優遇する家は、長い間私にとって必要だった。

私が家を必要とする限り、私は不当な目に遇い続ける。共依存である。


 共依存については、『東京喰種』の六月透において実によく表現されており、またその表現も大仕掛けである。

 六月透は、私が知っているストーリー作品の中で、最も衝撃的な経歴を持つキャラクターである。 

六月透は、家族が喰種に殺されたと思っていた。しかし喰種のトルソーに拉致され、暴力を受けている中で、透は真実を思い出す。家族を殺したのは自分だったのである。 透は、父親に性的なものも含め、日常的に虐待を受けていた。 

トルソーもまた、子供の頃に父親に暴力を受けていた。 トルソーは人間の女の子のミノミと仲良くなったが、父親にミノミを殺され、逆上して父親を殺す。

 しかし既にトルソーの中には、女性への嗜虐性が芽生えていた。ミノミもまた親に暴力を受けており、生傷や痣が絶えなかった。トルソーはミノミの傷や痣に見とれていた。 

結局獲物を父親に奪われたために父親を殺したトルソーは、女性を捕食する時も、その首を切って胴体を愛撫するようになる。トルソーは女性の顔を見れないのである。

 家族を殺した記憶が甦った透は、トルソーに自分を殺してもらおうとするが、気がつけば自分がトルソーを殺していた。そして強力なクィーン・ビーとなり、CCGを離脱し、隻眼の王として喰種の側に立った金木研の前に立ちはだかる。


 厳密には、透は金木との間に共依存関係を築こうとする者である。 それだけに、共依存の加害者がどのような人間かがよくわかる。 

共依存の加害者の特徴のひとつは、相手を自分のものだと独りよがりに思っていることである。

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「泥棒猫」と言っているが、透と金木が恋愛関係にあったことは一度もない。

 2つ目の特徴は、共依存の被害者に強い執着を示しながらも、相手が破滅しようがお構い無しなと ことである。

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と透は言うが、CCGは金木の替玉を公開処刑しており、金木に出てこられても困るだけで、やはり金木を殺すだろうが、共依存の加害者は臆面もなくこういう嘘を言い続ける。そして最後は、「誰のものにもならない」ようにと金木を殺そうとする。独占欲の裏返しである。 

3つ目の特徴は、被害者と共依存関係を築けない、もしくは共依存関係が壊れていることへの鈍感さである。 

透は金木を引きずり出すために、トーカの友達の小坂依子を逮捕させる。 依子は死刑にされそうになり、透はそのことを金木に伝える。 

透は、金木が依子のことをトーカに伝えないと思っている。しかし、

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と、金木が出てくることについて強い確信を持っているが、実際は金木は罠だと思っているので出てこない。

 ある時、依子が処刑される書類をトーカに見られる。そして金木は、トーカに書類を見られたことに気づく。

 この時トーカは妊娠していたのだが、金木が書類のことで探りを入れようとすると、トーカは書類のことに触れず、替わりに妊娠したことを告げる。

 透の理論なら、トーカに書類を見られたら金木が透の前に現れる可能性が高くなるのだが、二人とも透の読み通りには動かない。共依存の加害者は、相手が自分の思い通りにならないのを理解しないし、したくないのである。

miurayoshitaka.hatenablog.com

では、ブラック企業の経営者やDV加害者が弁護士が出てくると腹を立てることを指摘している。

delete-all.hatenablog.com

のフミコフミオ氏の元社長は、反省をせず、氏の待遇を下げて氏を会社に戻そうとした。

私が「和」を嫌いになった理由(後編) - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の上司Dは、私が金を貸して相手の弱みを握ったと思っていたのに、金を借りて私の弱みを握ったという偉大な勘違いを最後まで持ち続けた。

 共依存の加害者は、自分がコミュニケーション能力に長け、優れた判断力を持っていると思っているが、問題が起こるとその反対であるのが露呈する。

また共依存は加害者も依存しているのであり、そのため共依存関係が破滅されると、加害者も深刻なダメージを受ける。

 そしてこの共依存関係は、日本中の至るところに張り巡らされている。

最近日本ボクシング連盟山根明会長の不祥事が話題となったが、山根氏の言動は、共依存体質をそのまま表に出したものである。 


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日本型ファンタジーの誕生⑱~『僕だけがいない街』1:これは不幸な人々の物語

僕だけがいない街』の主人公藤沼悟が幼児の時、よく小学1、2年生の女の子と遊んでいた。 

その女の子アッコねえちゃんはある時、「悟ちゃんは二番目に好きなの。ツトムくんっていう、ケッコンするって決めた男の子がいるの」と悟に言う。 

「ツトムがいなくなれば自分が一番だ」と思った悟は、翌日角材を手にツトムを探して見つけるが、ツトムは気にも止めず、「一緒に遊ぼうか」と言ってくる始末。

自分はツトムに敵わないと、悟は幼心に感じる。その後アッコねえちゃんは、悟と遊ばないようになった。

 ある冬の日、悟が一人で遊んでいると、アッコねえちゃんが近くを通りかかった。 悟は追いかけるが、アッコねえちゃんは振り向かずに物置小屋に入っていく。 

実は中には、後に連続誘拐殺人犯となる八代学がいたのだが、悟が外から声をかけるとアッコねえちゃんは出てきた。


 悟はいつも、母親が務めている建設会社の側の原っぱで遊んでいたが、その時若い従業員が二人に、寒いから中に入るように声をかける。

 しかし会社の社長は子供が嫌いで、無断で悟達を入れたその従業員を殴りつける。 

社長の子供嫌いを知っている他の従業員は、その若者を笑う。しかし、

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とこの作品(厳密には悟)は言うのである。

この少し大げさに見える描写は、何か意味があるのか? 

ツトムと戦おうとして戦う前に敵わなかった悟と、殴られた若者は重なるのである。

 それはまた、若者を殴った社長とツトムが重なるということでもある。社長は悟の母親に再婚を迫って拒否され、悟の母親も殴っている。

 それだけでなく、社長とツトムは八代とも重なる。

八代が結局未遂に終わった、最初の犯行に及んでいたのは印象的である。八代は世間受けのいい人物で、後に市議会議員にもなる。 

敵意を持つ悟に対してもおおらかで、悟に「自分があまりに幼く、無力で、わがまま」と思わせたツトムも、女性を幸福にするとは限らない。 


悟が子供の頃に起こった連続誘拐殺人事件の記憶を辿っていき、最後の犠牲者の杉田広美を思い出す。

 少年達が「アジト」と呼んでいた場所に悟はヒロミを誘うが、ヒロミは怖がってこなかった。その後ヒロミは殺される。悟は、

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と悔やむが、ヒロミを一人にしたことを悔やみ続けるのは、罪悪感を過剰に感じ過ぎだろう。 

この後に悟はヒロミを回想することはなく、悟の母親が八代に殺された時の走馬灯で、冤罪で逮捕された白鳥潤のアリバイについて、悟が証言したのを回想する。白鳥潤は子供の頃の悟がよく遊んだ人物で、悟は「ユウキさん」(白鳥がよく勇気という言葉を使うから)と呼んで慕っていた。 

「犯人はユウキさんじゃない」と悟は訴えるが、警察は受け入れてくれない。

悟はそのことを悔やんでいるのである。

 ここでヒロミと白鳥潤が重なる。引っ込み思案だったヒロミと白鳥潤は同じなのである。 

悟が誘拐殺人の被害者を救った時間軸で、死ぬはずだったヒロミと雛月加代は結婚し、子供が生まれる。 

この二人が結婚して子供が生まれるのは、子供が幸福の象徴だからである。だからこのエピソードは、不幸な運命にある者が幸福になることへの強い願いが込められている。

 悟の母親は、悟が白鳥を救えなかったことを忘れさせようとした。それは失敗だった。ケンヤに「とても尊敬している」と思わせた悟の母、藤沼佐知子も、毒親の要素を持っていたのである。


 連続誘拐殺人事件の犯人・八代学は、子供の頃暴力的な兄に虐待を受けていた。

 子供時代に八代は一度、白鳥潤に接触している。白鳥はいじめにあって、靴を無くしていた。 

「僕はゆうきがないから、なんもいえなかった」という白鳥に、

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と八代は言い、自分の靴を白鳥に渡す。

 八代の兄は、やがて少女の凌辱に不満の捌け口を見つけ、八代は兄の所に少女を連れてくる役を命じられるようになる。 しかし兄はある時、ばれそうになって少女を黙らせようとして、少女を殺してしまう。 

八代と二人で少女を隠し、少女が行方不明になったことで騒ぎになるが、八代は完全犯罪で兄を「自殺」させ、少女が発見されて騒ぎが収まる。その時には既に、八代の中に「兄」が住み着いていた。

 一方、白鳥は大人になってもフリーターのような生活をしていたが、一人でいる子供に声をかけ、友達と仲良くなる方法、そして「勇気」を教えるようになる。 「勇気」という言葉は、悟に大きな影響を与えていく。 

それは白鳥なりの戦いだった。しかしやり方は自分なりでも、殴られる覚悟で主張するのを「勇気じゃない」と言った八代の言葉は否定したのである。


 悟の立場は、一見して傍観者である。自分の手で救える人を救わなかったことが後悔となって、自分の心の奥底に踏み込むのを恐れるようになった。

 しかし悟もまた、ヒロミや白鳥と同じなのである。その悟が、世間の信頼を得ている八代を追い詰めていく。

僕だけがいない街』は、世間から白い眼で見られ、不幸な人生を歩む人々に大きく寄り添った作品である。


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「スリーパーセル」発言批判者はなぜ「ヘイトスピーチに罰則を設けるべき」と言わないのか⁉️

今年の初めに、三浦瑠璃氏の「スリーパーセル」発言が物議を醸した。

lullymiura.hatenadiary.jp

その時に一番話題になったのがこの記事。

www.yomu-kokkai.com

この記事では、「スリーパーセル」の根拠を示せと言っているが、それは無理だろう。現状何の犯罪も起こしていない人物を「スリーパーセル」として公表するのはただの人権侵害である。

スリーパーセル」が大阪でテロを起こすか東京で起こすかは議論の余地があるが、最高指導者が殺されると終戦工作のために「スリーパーセル」が動かないというのは希望的観測に過ぎるだろう。

 一方こちらも。

fujipon.hatenablog.com

こちらは在日韓国、朝鮮人の立場に沿って論を展開している。 

確かに、「スリーパーセル」でない在日韓国、朝鮮人が偏見と差別を受けるのは避けたいところである。 ならヘイトスピーチに罰則を設ければいいんじゃねえの? 

2016年に制定されたヘイトスピーチ規制法は罰則規定がないが、ヨーロッパではヘイトスピーチに対しては罰則規定がある。 

スリーパーセル」騒動は、ヘイトスピーチに罰則規定を設けて、リベラルを前進させるいい機会だった。

 しかし、このようなことは保守派も主張できることなのである。

 保守派の中には、社会の安定を考慮して、リベラルに歩み寄れる者がいる。

 保守の中で頻繁にリベラルに歩み寄る者は、、その言動を見ればリベラルとそう変わらなくなってくる。 

保守の中にリベラルに歩み寄る者を大量に獲得することで、社会を前進させることができる。しかしそれをしないのは、「スリーパーセル」発言を非難する意図が護憲にあるからである。 

リベラルはほとんど9条について語らない。読む国会氏のようにしばしば護憲寄りの発言をする方が異例なのである。

それはリベラルのほとんどは護憲派だからで、自らが護憲派であるのを隠蔽しているからである。 リベラルが護憲の隠れ蓑であり、護憲の装飾であるのは、リベラルを理解する上で重要な事実である。


 私が子供の頃、右翼がデコトラみたいな街宣車で、大音量で軍歌を鳴らして通るのを見たことがある。 「あれ何?」と親に聞くと、「見るな‼️」とwww。当時の日本では、右翼は存在しないものだったのである。

 最近の右翼は、デコトラのような街宣車で軍歌で騒音公害をしたりしない。必要がないからだろう。

 私は右翼の主張にはほとんど反対なのだが、右翼が市民権を得て、軍歌を鳴らす必要がない社会になったことを喜ばしいことだと思っている。 

相手を存在しないものにしてしまうというのは、究極の差別である。異なる意見を存在しないものとして、社会にひとつの意見しかないものとするのが「和の精神」の目指すところである。 

「和の精神」が全面に押し出されると、改憲派がリベラルに歩み寄るのを喜ばないようになる。

だから「スリーパーセル」問題でも非難するだけで、在日韓国、朝鮮人の人権を守ろうとは考えていない。護憲派にとって、在日韓国、朝鮮人の人権は本当はどうでもいいのである。 

護憲派がそのような考え方をするから、日本にはリベラルに歩み寄る保守派が少なく、ほとんどの保守派が反動家である。

また日本には、「改憲派のリベラル」がいない。 

改憲派のリベラル」さえ生まれないから、議論にバラエティーがない。バラエティーがないから、人権向上の議論がしばしば封殺され、また多くの人が集団の中で無個性なままでいる。

 もういい加減、リベラルは護憲から切り離されるべきだろう。


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『未来のミライ』は幼児虐待!?(ネタバレあり)

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blog.monogatarukame.net

を読んだ時には、、やっぱり自分で観なきゃわからないと思っていた。

『GODZILLA 怪獣惑星』 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」 

を書いた時に言及した元記事(もう誰の記事かわからないが)に、実は映画を貶める意図を僅かに感じていたのである。だからその下げられた評価を修正する目的も、この記事にはあった。

 誰の記事かわからないものを批判するだけでも申し訳ないので、別の記事を挙げよう。

nlab.itmedia.co.jp

この記事で言うように、格別に面白いものではないのは、私も認めているのである。しかし

本作は脚本の練り込みが明らかに足りていない。まず問題なのは、前作のエンドクレジット後映像にも登場したミアナを始めとする、2万年後の地球に適応し生存していた人型種族・フツアだ。りん粉、卵、テレパシー……とくれば当然思い浮かぶのは「モスラ」シリーズの小美人だが、彼女たちはそれを示唆させる以上のキャラクターではない。

 

とまで言われるとどうかと思う。

日本型ファンタジーになった『GODZILLA 決戦機動増殖都市』(ネタバレあり) - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたような日本型ファンタジーという概念はもちろん私が勝手に言っていることであって、この記事を書いた人が知っているべきことではない。

 しかしフツアの民に虫の遺伝子が混ざっているという設定があるのに、『テラフォーマーズ』との関連に向かずに「小美人を示唆させる以上のキャラクターではない」と言い切ってしまうのには、思考停止の匂いを感じるのである。

 つまり、日本型ファンタジーの概念には私だけでなく、多くの人が気づいているのだが、それを言葉にするのをほとんど全ての日本人が避けているように感じられ、それがこのレビューによく表れていると思うのである。 

 

話が脱線した。今回は『未来のミライ』である。

 先に述べたように、自分で観ないとわからないと思っていたが、 評判通りwww。

思い切り空振りした作品である。 ここまでの空振りも珍しい。

 物語る亀はそれでも作画を高く評価しているが、それほどだろうか?私には作画の凄さを見せる機会もほとんど無かったと思っているのだが。もっとも私も作画を評価する能力には自信はないが。

 この作品が駄目なのは、主人公が4歳では、話を大きくするだけの活躍ができないことである。 

ならば主人公の年齢を高くすればいい。それが出来ないと細田守が思って映画を作ったところに、この作品のみならず、現代社会の限界があるのである。

 『未来のミライ』のテーマは、「家族の再生」である。 この重いテーマの主人公を、4歳の幼児が担わなければならなかった。

 くんちゃんは生まれたばかりの妹の未来にお母さんを獲られたと思い嫉妬する。 くんちゃんにはそれしかわからない。当然くんちゃんと未来の関係が、物語の主軸になる。 

4歳では、父親を理解するなど無理である。その父親を理解するために引っ張ってきたのが、やたらとイケメンの曾祖父さんである。

 この曾祖父さんだが、このキャラクター造形にも無理がある。 

戦時中に船で特攻を仕掛け、片足を負傷して生き残ったということだが、船での特攻なんてあったか?私の知識ではあったとも無かったとも言えないが。

 特攻の話は、昨今の特攻隊への日本人の憧憬を取り入れたものだろう。それでいて船での特攻にしたのは、生き残らせることで特攻を否定するためである。どうにも矛盾した態度である。 

この曾祖父さんをくんちゃんにお父さんと呼び間違えさせ、父親と同一視させる。その後「曾じいちゃん」と呼ばせてすぐに同一視しないように仕掛ける。目的は単純に父親を尊敬させるためである。 

それにしてもこの曾祖父さんは存在感が強くて、曾祖父さんがいなければこの映画は全く締まらないものになる。

 曾祖父さんは曾祖母さんに駆けっこで勝って結婚したという「伝説」があるが、それは真実だった。

曾祖母さんが途中で止まって、その間にびっこの曾祖父さんが抜いていったのだ。 勝った後の曾祖父さんのセリフが、

「足が速いなあ、もうちょっとで抜かれるところだった」www。実にイケメンな男である。

曾祖母さんがゆっくり走っていたら、二人は結婚しなかったかもしれないとミライは言う。そういう奇跡のようなものの積み重ねによってくんちゃんと未来が生まれたことを述べて、家族の大事さを強調する。
それでいて、細田は嘘がつけない。
お父さんは子供の頃は体が弱く自転車に乗れず、お母さん物をよく散らかし、猫が小鳥を噛み殺してから好きだった猫が苦手になった。
だから何なんだ‼️と言いたくなるが、要するに大した親じゃないということである。猫が苦手になったお母さんが、それ以前は猫愛好家を気取っていたところに、特にスパイスを効かしている。
極めつけは、高校生になったくんちゃんの登場である。「家出」したくんちゃんを説得するが言うことを聞かないくんちゃん、つまり自分に「あのガキ…」と言ってしまうところに、その性格が良く表れている。
大きくなったくんちゃんがなぜ高校生なのかといえば、高校生以上にできなかったからである。くんちゃんは大きくなっても、家族を大事にする以上の良識を持たないひねくれた奴なのである。ちなみにくんちゃんと未来の年齢差も、高校生以上年齢ののくんちゃんを登場させられないところから設定されている。くんちゃんが高校生でも、ミライが何とか中学生で登場できる年齢にするため、4歳の年齢差になったのである。

 

「家族の再生」をテーマにしたこの作品での両親の結論は、「ほどほどに良くやれている親」である。
別にそれでいい。しかし細田は、それ以上のものを出したかったのである。
未来のミライ』は、血のつながりを否定した『万引き家族』の逆をいこうとして、その限界を徹底的に露呈した作品である。
このようになってしまったところが細田の正直なところであり、嘘臭い家族像を無理に作ろうとしなかったところ、真生の作家というべきだろう。
しかしそのために大冒険が完全に不可能な4歳の幼児を主人公にするところは、構図的に自我を持つ人に威厳を感じさせるのが不可能だから幼児虐待に走る親に通じるところがある。
また、こうも言える。
私が日本型ファンタジーと言っている作品を中心とした昨今の作品群は、その中に社会、体制と言ってもいいが、それを否定する要素が含まれている。
対して宮崎駿などのジブリ作品や、それと同系列の細田などは、社会、体制を最終的には肯定する作家、作品群だった。その第一人者である細田が社会、体制を肯定するのが無理なことを完全に露呈した作品が『未来のミライ』なのである。

 

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「成長体験」

不作為の行為は加害行為である - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたような明らかに過剰な労働を他でも体験したことがあり、なぜそうなるのか考えた。

パワハラ上司は無能である② - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

でも述べたが、パワハラ上司には、作業において必要な確認をしないものが多い。そして確認しないで作業ができることを優れていると思っている。その辺りが 過剰な労働を強要する原因となっていると思われる。


 厳しい環境で仕事をしていると、その人の能力が上がる。 

作業のスピードが上がり、作業の手順が頭の中で次々と組み上がり、順々に作業を処理していけるようになる。 

このような経験は若い時にすることが多く、また非常に快感である。 このような体験をすると、人はそれを「成長」と捉える。

そして「成長」に快感が加わっているので、「もっと『成長』したい」という想いと、「この『成長』を他の人も体験して欲しい」という、二つの想いが生じてくる。 

「成長」した人はその「成長」が評価されて、役職について部下を持つことが多い。だから自分の「成長」を他の人にも体験させ、他の人の「成長」を業績の向上に組み込んで指導をすることになる。 

しかし多くの場合、他人はその「成長」した人と同じようには「成長」してくれないのである。 


「成長」した人は同じように「成長」しない人に苛立ちを感じ、「成長」しない人を非難するようになる。その過程は

toianna.hatenablog.com

などでも詳しく述べられており、また私も社会人としてではないが、学生時代に同じような経験をしたことがある。 

トイアンナ氏のように、「成長」を全ての人に同じように求めるのは間違っているという結論に達する人もいるが、その逆に、「成長」しない者が間違っているという考えを強めていく人もおり、むしろそちらの方が多いだろう。 

「成長」を全ての人に求める人とそうでない人の違いは、「成長体験」の後の経過の違いによるところが大きいようである。つまり「成長」を人に求めて失敗したか、そうでないかの違いである。

 ここで注意しなければならないのは、「成長」を他人に求めて全面的に成功した一群が存在すると思ってはならないことである。

 そのほとんどは「成長」を他人に求めて失敗している。しかしその失敗を、失敗した人の責任にすることで自分の責任を直視せずにいる。しかも同僚とその「他責」を認め合っているので、「他責」に疑問を持つこともない。こうして他人に「成長」を求める傾向と「他責」は一体化、構造化する。

 他人に「成長」を求める傾向と「他責」が一体化した構造は、企業にとって都合がいいものに写る。 何か問題があった時に、それを自分の責任と思い、努力して「成長」する人は企業の業績を上げてくれるからである。 しかしその裏にあるのは、本来企業、役員、管理職がとるべき責任を転嫁したいという本音である。

だから「他責」が成果を上げているうちはともかく、離職者が増え、業績が伴わなくなると、企業は構造に引きずられた選択をするようになる。

 本来人間にできないことを強要しているのに、さらに時間当たりのノルマを上げるようなことをするのである。それは本来自分がとるべき責任を転嫁することで、既に心の中に芽生えている罪の意識から強引に目を逸らしているのである。

こうして作業員が過労で倒れるなどの「破局」が起こる。 

過労で倒れるような被害者ばかりでなく、加害者もまた、厳しい労働環境にさらされている。「早くしろ」とせっつかれて、必要な確認作業もすっ飛ばしてそれでもしばしば成功していくのは、何か問題が起こればすぐに他人のせいにするという「他責」により、「自分が正しい」という信念が揺るがず、そのため高い集中力を維持できるのである。 

その集中力は当然、強いストレスを生んでいる。

そのストレスを発散するために人に怒鳴って、益々「他責」の構造を強化する。 こういう会社では、何かあった時に「誰がやったか」という「犯人探し」が頻繁に行われる。

「人のせい」にすることで作業手順、ノルマ、システム、構造の問題から目を逸らし続ける。その構造を作ったのが自分たちだからである。

 しかしその構造も維持し続けられなくなって、機械化などの業務の改善に企業は取り組むようになる。こうして「成長体験」は、猛烈な失敗の体験と罪の意識に代わる。


 かつて日本は、1000分の1ミリの狂いもない作業を手作業で行い、その職人芸により工業立国として、世界第二位に経済大国にかけ上がった。

 しかしその職人芸は、PTSDによるものが大きいと最近では思っている。

『天才脳は「発達障害」から生まれる』では、戦後の人々の多くが戦争での体験を心に蓋をしたまま、戦後の経済再建に取り組んだと述べ、その一人として、ダイエー中内功を紹介している。 

そして高度成長を支えた職人芸ができたのは戦前生まれの人々で、わずかにでも近いことができるのは第一次ベビーブーム世代までだと思っている。

全て定年を迎えた人々であり、それ以外の人々は1000分の1ミリの狂いもない作業など不可能である。

 しかし職人芸を行った人々の歴史が亡霊となって人々の記憶に残り、その記憶が強烈なパワハラを産み出していたのである。


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「戦争と平和を考えるマンガ」②~『ヨルムンガンド』

主人公のヨナは、武器商人のココ・ヘクマティアルの私兵として世界中を旅する。「私が武器の扱い方を教えてやる」とココはヨナに言う。
「ココはなぜ武器を売る?」と尋ねるヨナに、「世界平和のため」とココは答える。
少年が年上の女性に教えを受け、導かれるという構図は、『銀河鉄道999』を彷彿とさせる。
しかし『ヨルムンガンド』は、『銀河鉄道999』とは全く違う展開を辿るのである。

ヨナは西アジアの山岳地帯の少年兵で、ヨナと同じ孤児達が武器商人の手によって殺されたのに逆上し、基地の兵士を全員殺してしまう。その直後にココの「双子のように瓜二つな兄」キャスパーの私兵に拘束され、ココの私兵になる。
武器により両親や仲間を殺されたヨナは、武器を憎んでいた。
ココにはヨナの他に9人の私兵がいるが、注目すべきはレームである。
レームは一人の女性と結婚と離婚を繰り返している。その女性がキャスパーの私兵であるチェキータである。
結婚と離婚を繰り返すカップルというのはたまに聞く話である。なぜそのようなことをするのかが、人の興味をそそるところだが、『ヨルムンガンド』で重要なのは、なぜレームとチェキータが結婚と離婚を繰り返しているのかである。

ココの下で戦いながら、ヨナはやがてココが進めるひとつの計画に気付いていく。
その計画は「ヨルムンガンド計画」。量子コンピュータと128個の衛星によりあらゆる飛行機、ミサイルが空を飛べないようにし、物流をストップし、人間から軍事を切り離すことで強制的に全世界の戦争を終結させる計画である。
ヨナは「ヨルムンガンド計画」に反対し、ココの下を離れる。そして2年間、キャスパーの下で働く。
そしてキャスパーからも離れる。完全に私兵を辞める決意をしたのである。しかしヨナは武器を捨てられない。そしてココに助けを求める。

ココ・ヘクマティアルは「世界の運命を決めるヒロイン」であり、「平和の女神」である。
「女神」は、ジョゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』で述べた神話学の概念であり、母であり姉である。
キャンベルは女神について、ギリシャ神話のアクタイオンとディアナの遭遇を例に挙げて説明している。
ディアナの水浴の現場を見てしまったアクタイオンは、ディアナの怒りにより鹿に姿を変えられ、自分が連れてきた猟犬に食われて死ぬ。
キャンベルはアクタイオンは、ディアナと向き合えるだけの成長をしていなかったから不幸な死に方をしたという。十分な成長を遂げていれば、「女神」に影響されることはない、と。

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ココを理解しなかったヨナは、ココの下を離れた時に、「女神」の罰を受けなければならなかったのである。

バルメは元フィンランドの軍人だったが、アフリカで国連平和維持軍に中国軍人の陳国明に部下を全員殺され、自身も右眼を失う。
「銃剣を付けた二挺拳銃の男」陳国明への復讐のためにナイフの腕を磨くバルメは、その技術が次第に陳に似通っていく。そして再び陳に会い、復讐を果たす。
この時バルメはナイフを捨てるが、ココが拾ってバルメに返す。
ココを「平和の女神」とするなら、その反対の「戦争の女神」が『ヨルムンガンド』にはいる。戦いの権化のような陳国明を殺したバルメは、「戦争の女神」になったかのようである。しかしその後戦闘で、バルメは得意のナイフを使わないのである。
ココの心酔者であるバルメは、「戦争の女神」とはなり得ない。バルメは「戦争の女神」の存在を知らせる暗示であり、「戦争の女神」のダミーである。真の「戦争の女神」は、バルメと戦い方が似ているチェキータである。

キャスパーをココの分身と考えた場合、ヨナがココの下を離れて罰を受けなかった理由が理解できそうである。
しかし「双子のようにそっくり」でも、キャスパーとココは双子ではなく、武器商人の仕事が大好きなキャスパーは「平和の女神」の分身とはなり得ない。ヨナがココの罰を受けないのは、「戦争の女神」チェキータに守られたからである。
ヨルムンガンド計画」に、ヨナ以外は全員賛成する。それぞれが自分の考えを述べる中で、

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と、レームだけが自分の考えを語らない。
レームは「戦争の女神」の罰を受けたのである。その罰は結婚と離婚を繰り返したチェキータとの「永遠の別離」である。

ヨナがココを理解できなかったのは、年齢的には仕方のないことである。
しかし、それでもこの場合はヨナに非がある。
「それでもこの世界が好きなんだ」とヨナは言う。
「好き」は「理解する」と同じである。
ココは世界が嫌いだという。
ココが世界が嫌いなのは、武器商人としての自分が嫌いだからで、「ヨルムンガンド計画」も何らかの理想があってではなく、自己嫌悪から世界を否定したものである。
ヨナは世界を好きなように、ココを好きであるべきだったのである。しかしラストは、

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「しかしココについていく」と言い、「ヨルムンガンド計画」は発動する。
ヨルムンガンド』は、大団円に見せたバッドエンドである。
このバッドエンドにより、男達に自らの汚れを認識させ、汚れた世界を愛し、汚れを否定して平和を唱えることの非を説いたのである。

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信長の戦い④~長篠

次は美濃攻めを書く予定だったが、先に長篠の戦いを書くことにする。

背景として、武田信玄が死んで足利義昭を追放したこの頃の信長だが、その勢力の伸長は一進一退を続けている。
1573年に浅井、朝倉を滅ぼしたが、旧朝倉領の越前は一向一揆が起こり、加賀と同じ「百姓の持ちたる国」になる。手に入れたのは浅井領のみというのが当時の状況である。
一方、信玄の跡を継いだ武田勝頼は、織田、徳川に積極的な攻勢を仕掛けてくる。
加賀は美濃の明智城を攻略し、信長は救援に駆けつけようとしたが間に合わなかった。さらに勝頼は徳川方の高天神城を攻めるが、またも信長の救援は間に合わず高天神城は陥落した。
この時期、信長の動きは実にのんびりしている。
しかし信長は、高天神城救援の兵力をそのまま長島一揆攻略に向けた。そして2万もの一揆勢を虐殺し、長島一揆を終息させた。
2城を失って1城を得た形勢である。しかし長島は、信長の勢力圏の中のとげだった。かつて浅井、朝倉が比叡山に立て籠った時、長島一揆勢により信長の弟が殺されたが、信長は救援に駆けつけることができなかった。2城を失っても、長島一揆を終わらせた意味は大きい。

長篠の戦いでは、鉄砲三千丁を三段に分けて一斉射撃を行ったという説は否定されている。
鉄砲は千丁ほどしかなかったし、騎馬、徒歩が混合した当時の軍勢が一斉に織田軍の射程距離に入るはずもなく、さらに家ごとにある鉄砲隊を全てまとめ上げることも当時は不可能である。よって長篠は陣地防衛戦であるというのが現在の歴史研究家達の結論である。

問題は、なぜ陣地防衛戦で武田軍が壊滅的な打撃を受けたかである。
信長公記』によれば、武田軍の死者は一万である。
この点について、結論はほとんど噴飯ものだが問題提起は秀逸な秋山駿の『信長』は疑問を呈している。

勝頼軍は、自分から攻撃しなければ、敗北はあり得ないのである。
それなのに、前後八時間もかけて、まさか乃木将軍の二〇三高地攻めでもあるまいに、飽きずに被害甚大の攻撃を繰り返す。いったい戦争に老練なはずの武田の宿将とは何者であろうか。

 

藤本正行の『信長の戦争』は、武田軍の突撃までの経緯を詳しく書いている。
きっかけは、武田方の鳶ノ巣山砦を酒井忠次が奪ったことによる。
鳶ノ巣山砦は、武田軍が長篠城を攻略する要となる砦で、織田、徳川連合軍が到着してからは、織田、徳川連合軍と長篠城の挟撃を防ぐための抑えの砦だった。
この鳶ノ巣山砦が奪われてから、勝頼は織田、徳川連合軍に猛攻撃を始めるのである。

勝頼には猪武者という評価と、本当は名将だという真逆の評価がある。
私に言わせれば、勝頼は猪武者どころか端武者である。

私は推量する。武田軍は、よほど信長軍弱体を確信し、またおそらく、家康家臣団一部の情報によって、設楽原へと導き出され、、その一部の内応を当てにして、同じ突撃を繰り返していたのであろう、と。

 

結論が噴飯ものが多い『信長』だが、この部分は当たらずとも遠からずである。
勝頼が猛攻撃をするのは、自分が弱者だと認めたくないからである。
明智城高天神城の奪取により、勝頼は自分を信長より強いと思うようになっていた。しかし長篠で挟撃の恐れが生じたことで、勝頼は自分の強さにけちがつけられたと感じた。
猛突撃は、ついたけちへの強烈な否定である。しかし無意識では、「強者」としての自分が否定されることと、真の「強者」への強い怯えがある。
この意識と無意識の逆転は、強弱の比較で自分に有利な点を大きくとる習性を身につけることにより起こる。私はこれを「勝頼病」と読んでいる。
「勝頼病」というが、幕末の長州の破滅的な行動や、太平洋戦争での日本軍の特攻の繰り返しも「勝頼病」である。「勝頼病」は古今を通じた、日本人共通の病である。

信長の戦い③~桶狭間 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、今川軍が信長勢を易々と本陣に入れてしまったのも、信長が今川軍に「勝頼病」を発生させたからである。信長は日本人の「勝頼病」を発生、利用するのが得意で、重要な局面では必ず敵に「勝頼病」を発生させている。

長篠の後も、信長は「勝頼病」を利用し続けた。
武田領には、信長はほとんど手を触れていない。
「勝頼病」の克服には、破滅するほどのダメージを受けて、現実感覚に目覚める必要があるが、長篠の戦いは「破滅するほどのダメージ」に相当する。
しかし「強弱の比較で自分に有利な点を大きくとる習性」が邪魔をする。武田領はほとんど手付かずである。その分勝頼は「自分はまだ強者だ」と思い続けるのである。
勝頼はその後も、疲弊した軍団を率いて攻勢に出る。
注目すべきは、徳川領ばかりを攻めている点である。既に信長への恐怖心が勝頼を支配している。
その後の勝頼の行動で、酷いのが「御館の乱」での対応である。
御館の乱」は謙信死後の上杉家の跡目争いだが、一方の当事者の上杉景虎北条氏政の弟である。勝頼は当時同盟関係にあった北条氏の要請により「御館の乱」に介入したが、上杉景勝からの和睦を受けて北条氏との同盟は解消、北条氏は織田と同盟を結んだ。
「勝頼病」の患者は、自分を認めてくれる相手に弱い。
上杉領の一部の割譲を受け、景勝と景虎の間の調停をしたりしている。一時的に和睦が成立したが、この和睦は事態の先伸ばしでしかない。
こうして信長が武田征伐を行うまで、勝頼は武田家を衰退させ続けるのである。

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