坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

汚職というものの正体について

最近岸田政権の支持率がちょっと上がったようで、ちょっと上がって23%。それにしても上がって23%って……。
これだけ支持率低迷が続いたのは初めてのことで、また支持率低迷が続いたまま政権が維持されているという事態も珍しい。
最近は裏金問題とかがあって、派閥解散とか色々対処したりして、まあ派閥解散なんてのは過去にもあったことで、真面目に取り組んだのかそうじゃないのかよくわからんのだけれど。
もっとも裏金問題以前から支持率は低迷していて、私なんかはそういう不正に怒りの声を上げるのってちょっとピントがずれてるんじゃないかと思ってるんだけれど。

まず誤解なく言わせてほしいのは、政治家の不正というのは今に始まったことじゃない。ずっと昔からあることである。
「そんなことは知ってる」という人もいるだろう。ならばこう言えばどうか?「政治の汚職は排除は政治に最も近い者が行うことであり、汚職の改善は政治の外科手術に等しい」と。
汚職は政治に最も近い者が行うから、最高権力者の周辺が一番腐敗している。だから前近代に汚職の改善なんてほとんどやっていない。
前近代の権力者、王様や皇帝や独裁者が汚職の摘発なんかしようものならどうなったか?
最高権力者に一番近い者、つまり側近とかが一番汚職をやっているのだから、汚職の摘発なんかしたら情報が入らなくなる。側近が手足のように動いてくれなくなる。そして寝首をかかれて終わり。
女官や後宮なども側近であって、彼女達も政治勢力なので賄賂も取り放題。下手に罰したりしたら側室などに自分の子じゃない子を孕ませられたりして浮気相手の男と共謀してやはり寝首をかかれかねない。だから男尊女卑の東洋でも賄賂で女性を罰した例さえ聞いたことがない。
織田信長安土城にいた時に、琵琶湖の竹生島に信長が出かけて、信長が一泊すると思った女房達が桑実寺に参詣に出かけたところ信長が戻ってきて、怒って女房達を手討ちにした話があるが、この事件も賄賂などを表沙汰にすれば角が立つため、ちょっと理不尽なふりをして、処罰しにくい女房達の綱紀粛正を図ったのである。
女性でさえ汚職を取り締まれないのだから、男の汚職を取り締まるなどできるはずもない。ムッソリーニはマフィアを撲滅したらしいが汚職を取り締まるのは不可能だった。
近代以前で私が知っている限りでは、ルイ14世の大蔵卿フーケが不正な蓄財をしたということで終身刑になったのと。古代ローマスキピオ・アフリカヌスが汚職で弾劾されて政治生命を断たれたことぐらいである。
古代ローマといえば、一番の英雄ユリウス・カエサル汚職の大物で、派手に剣闘士試合を開いて大衆を買収し、カピトリーノの丘の神殿に奉納されていた金塊を盗んだりしている。
そして汚職の有無と政治実績の相関関係というのはなく、むしろ汚職が頻繁な社会の方が政治実績は高い結果が得られているようにさえ思える。

しかし過去と現代を同列に論ずることはできず、過去に配慮の必要のなかったことが現代では必要になったりする。
民主主義によって大衆が政治に参加できるようになって、ようやく汚職というものを政治問題として扱えるようになったが、それでも汚職を裁くのは権力であることに変わりはなく、政府は絶えずちょっと腹を裂いて患部の一部を自分で切り取って、、すぐに縫合するようなことをやっている。
汚職の糾弾は公正を求める以外のメリットはほとんどないが多少とも政治家の思い上がりを修正し、政治家がそれまで見なかった方向に目を向けるくらいの効果はあるだろう。そこには今まで報われていない人々がいる。
そうやって、膨大なロスを出しながらも、長い時間をかけて、公正で報われない人がいない社会を作っていくのだと思う。政治とは、本来時間のかかるものである。
なお、スキピオ・アフリカヌスのローマは民主政ではないが共和政である。

また汚職に怒りを持つ人々も、自分達の政治のベクトルを汚職に向けていることで、膨大なロスを生み出している。
現代社会は複雑化して多様な時代で、様々な政治的利害がぶつかり、容易に方向性を見出だすのが難しくなっている。
だからこそロスが膨大でも、汚職に関心を持つことは無意味ではないのだが、なぜベクトルが定まらないのかを考えるはある。
日本は島国で、近代以前は外敵が攻めてくることはほとんど不可能だった。そのことが独自な文化を育むと同時に、外敵との戦争による影響で国内を変化させていくということができなかった。
例えば人間の欲望によって社会のベクトルを既定できるなら非常に楽なのだが、それで済むなら今のような、日本人が抱える表現しようのない不満というのは生まれない。今の日本人の不満は欲望で解消できない。
そうは言っても、問題はやはり人間は欲望に従うということである。しかしこのことは大きな問題ではない。
なぜなら人間の大半が欲望に負けることは前提で、欲望に依らずに成立している思想は世界中にあるからである。

旧約聖書の『ヨブ記』で、ヨブに様々な災難が訪れるが、あまりに多くの災難がヨブにふりかかるので、ヨブの友人は「それだけ不幸に見舞われるとは、お前に何か問題があったのではないか?」と言ってヨブを非難する。
善因善果、つまり正しい原因には必ず正しい結果が伴うと考えると、ヨブを悪人にせざるを得なくなるのである。ヨブの災難は神がヨブの信仰心を試したからであり、ヨブに対する非難は神によって否定される。
この考えを突き詰めれば、清貧の中でも正しさを貫くことができるという考えになり、それを実践したのがアッシジのフランチェスコである。



フランチェスコ托鉢修道会を結成し、所有権を放棄し、粗衣に裸で宣教して回り、家屋さえ持たずに托鉢によって暮らした。
托鉢修道会の思想をさらに突き詰めたような思想もある。
テトリスの背景画像として有名な聖ワシリイ大聖堂の名前は、佯狂者ワシリイの名前から来ている。



佯狂者とは、狂者、愚者を装って、その中にキリストの真理を表そうとする聖者のことである。
佯狂者はボロを纏って町を徘徊し、暑さ、寒さ、飢え、辱めを忍び、夜は聖堂の軒下などに野宿して眠る。

佯狂者ワシリイのイコン



このような思想は、日本では『雨ニモマケズ』しかない。しかも『雨ニモマケズ』の宮沢賢治は思想を実践していない。
実践のない思想は無意味であり、そしてこのような清貧の思想は、持てる者から出てこなければならないのである。フランチェスコは裕福な毛織物商の息子だった。
ヒッポの聖アウグスティヌスも女性と同棲して私生児を成し、「私は肉欲に支配され荒れ狂い、全く欲望のままになっていた」と語っている。
欲望に支配された者が欲望を果たせず無欲になるのではなく、欲望に支配されて欲望を満たし続けた者が欲望を放棄することで思想が成立する。
アメリカにもアーミッシュがあり、近代以前の生活様式を維持し、自動車も使わず馬車の使い、商用電源も使わずに、わずかに水車や風車の自家発電での電力を使用する程度である。
このアーミッシュでは、子供は16歳になると俗世で暮らし、酒、タバコ、ドラッグなどの多くの快楽を経験する。そして18歳になると、アーミッシュに戻るか、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかの選択が求められる。
清貧の発想が「持てる者」から生まれてこないことが現代の問題であり、そのことに気づかない人々が政治家の汚職などで膨大なロスをしているのである。

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