坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

東京都知事選から見る若者の右傾化について

東京都知事選では、若年層が田母神俊雄氏に多く投票したことで、若者の右傾化ということが言われた。今回はまことに後れ馳せながら、都知事選から、若者の右傾化について考えて見たい。
右傾化といっても、都知事選で防衛問題が議論されることなどない。だから右傾化はあくまで、「安全の確認された原発は運転を再開すべし」と発言した、田母神原発に対する考えに、若年層が支持した点に限定される。

原発については、原発派と脱原発派2つの意見が対立している。原発派は、石油の価格が高騰している中で、火力発電に依存することのリスクを主張しているが、脱原発派も、原発事故が起こった場合の費用を考えると、原発は安上がりではないと主張する者があり、議論は決着をみていない。東京都知事選は、前知事の猪瀬氏の辞任を承けての選挙のため、原発問題も充分な議論があって投票に反映されたとは言い難い。したがって、原発派も脱原発派も、その人の気分の反映と見るべきだろう。

では、原発派、特に若年層の原発派の気分とはどのようなものか。
大澤真幸は『不可能性の時代』で、現代人が「現実以上の現実、現実の中の現実、『これこそまさに現実!』と見なしたくなるような現実」へと逃避していると述べている。そのような現実とは、「極度に暴力的だったり、激しかったりする」という。
原発派の気分を、このような
「現実以上の現実」への逃避と考えることができるだろうか?このことを考える手助けとなるのが、都知事選の時期にヒットしていた映画『永遠の0』である。
半年ぶりに『永遠の0』のアマゾンのレビューを見て、内容が大きく変わっているのに驚いた。半年前は零戦での戦闘に興奮している言及が実大半だった。特攻がメインテーマの小説で、零戦ファイトに盛り上がっている様は不謹慎ささえ感じられるほどで、それに反発して、私も映画を見た上での感想を書いたりした。今は、読者も冷静になったということか。
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/406276413X?pc_redir=1405116630&robot_redir=1
しかしアマゾンのレビューを見ていくと、しばしば「主人公がなぜ特攻に志願したのかわからない」というコメントがある。一方で、「主人公に共感した」というコメントは、探した限り見当たらなかった。いや、おそらく探しても見つからないのだろう。『永遠の0』は、メインテーマにおいて、読者、観客の共感を全く得ることなくヒットした。

読者、観客の共感を全く得ることなくヒットした!?それを現実だと認められるだろうか。
そんな商業主義万能を表すような見解を否定する方法は、一つしかない。それは、観客、読者は、『永遠の0』の主人公に共感していた。しかしその共感はあくまで無意識のもので、決して意識上に昇ることはなかった。いやむしろ、意識上に昇れば、その共感は本人自身が認められないもの、否定しなければならないものだったからこそ、共感は無意識に封じ込められ、共感の表出が、やや不謹慎な零戦ファイトへの興奮となったのではないか?
その共感とは他でもない、零戦で特攻をしたかったのは読者、観客自身ではないか?

『永遠の0』のヒットから導き出した結論を、都知事選での若年層の右傾化に当てはめれば、以下のようになる。
若年層の右傾化、つまり原発の再稼働を求めるのは、原発の安全を確認したからでも、原発原発事故を考慮した上でも低コストだと思ったからでもない。原発事故が再び起こり、放射能に汚染された大地で、放射能障害と戦いながら生きることを、彼等自身が望んでいるからである。なぜそのような望みを抱くのか?彼等はたった一つのことにより、救われるからである。すなわち、自分達は国のために犠牲になったと。

このような精神を私は「破滅志向」と呼んでいる。個人的過ぎて具体例は挙げられないが「破滅志向」の持ち主は私の回りにもいる。「破滅志向」の持ち主は、破滅が遠くにあるうちから破滅に向かう選択を繰り返し、破滅が迫るにつれて、天に昇るような心境になり、様々な努力をしても、破滅を回避する努力だけはしない。別に特攻隊や戦艦大和を見なくとも、戦争末期の日本人をみれば、その姿に「破滅志向」は感じ取れるだろう。右傾化を原発に限らずにみれば、太平洋戦争を肯定的に捉えようとする人々の多くは、戦略を語らないが、そのような姿勢も、「破滅志向」から語ることができるだろう。