坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

尼崎事件から見る和の深層

尼崎連続変死事件の主犯と目された角田美代子は、逮捕から二ヶ月後の2012年12月に首を吊って自殺した。
逮捕後、「生きていても仕方ない」としばしば口にした上での自殺だった。自殺を口にするうちは簡単には死なないものだが、自殺を口にしてなお精神を保てずに実行したことを思うと、これほどに死を願った例は、ちょっと思い当たらない。
この思いを強くするのは、角田の死があまりに唐突で、拍子抜けするからである。この心情が、悪人には悪あがきすることを望み、悪あがきをする様を憎み、また嘲笑することで自足したいという願望なのだと気づくと、自分自身に愕然とする。

また同時に、角田の自殺は、悪人というものが、我々が思っているものとは違うものであることにも気づく。
我々の悪人の認識とは、悪巧みに長け、欲望が強く、悪事を糾弾されるに至っても自分の非を認めない、良くも悪くも生命力の強さを感じさせる存在ではないだろうか。しかしそうではなく、生命力の発露ではない悪があることを、尼崎事件は教えてくれる。
尼崎事件の核は、家族を乗っ取り、疑似家族を形成することにあった。こうも次々と家族が乗っ取られていることにも問題の深さを感じるが、その中心にいた角田は、乗っ取られた家族全てに取って強者だった。しかし強者だったことは、逮捕後の角田にとって何の支えにもならなかった。
同じような事件として、北九州市の連続殺人事件がある。この事件の主犯は死んでいない。関係者の話によると、北九州市事件の主犯は「多くの嘘で上塗りをしていくと、主犯の中では本当のことになる」と言われる性格である。角田はそうではなかった。そして北九州市の事件は、多くの犯罪が虚構によって起こることを示唆している。
角田は、家族を乗っ取り、虐待している間、自分を強者だと思うことができた。しかしそれだけでなく、犯行を重ねる間は、倫理的にもある程度、自分を正当化することができていたのではないか?
そう思うのは、虐待の手法が多くは、家族に悪口を言わせるところから始まっているからである。
家族に悪口を言わせる=悪口を言われた者は悪い=悪口を言わせた者は正しいという構図が、この事件には働いていたのではないだろうか。そして自分が正しいという思いを保つために、虐待、殺人、家族乗っ取りを繰り返していった。
しかし事件が明るみにでることで、善悪が逆転する。北九州市事件の主犯のような性格を持たない角田は、強者から弱者へ転落し、自分の行為も善から悪に逆転した結果、生きることに耐えられずに自死を選んだのではないだろうか。
最近、福岡県筑後市でも、似たような事件が発覚している。このような事件が増えているのかはわからないが、日本人に多い種類の事件だとは言えそうである。
つまり、この事件も一つの和の形なのである。和が壊れることで、人は自分の正しさ、強さについての自信を失う。自信を失わないために、和を保とうとし、和から外れる者が現れるのを恐れる。和を保ち続けた先には、破滅が待っている。
孤立無業者(SNEP)という言葉がある。
20歳以上59歳以下の未婚の無業者(ニート)のうち、普段ずっと一人でいるか、一緒にいる人が家族以外にはいない人々を指す用語である。SNEPの特徴は対象年齢の広さと、孤立の度合いを対象とした点にある。だから高学歴、高収入だった者も、SNEPに入っている。このSNEPが2011年の時点で162万人いる。
SNEPの多くは、和が壊れたことにより今の境遇になったのではないかと私は思っている。このことは二重の意味を持つ。就労においては、会社自体が和となっているため、技術を持っていてもその和に入りにくいということ、もう1つは、和が壊れたことで自信を失った者が、再就職活動をする活力を作り出せないことである。
自信は「自分を信じる」ことであり、和の中にはない。