坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

陽明学という道

日本では明治以降、儒教を学ばなくなったため、学問としての儒教は完全に絶えてしまっている。
そういうのは、少しもったいないと思う。儒教の中でも尊王攘夷という、幕末の倒幕のイデオロギーになった朱子学と違って、陽明学は面白いのに。
知行合一」として認識と実践を統一する陽明学だが、学問自体よりも、学問の創始者である王陽明というキャラクターが与える影響の方が強いと言っていい。
王陽明とはどんな人物かと言えば、一言で言えば軍事の天才である。
王陽明は中国の明代の人物で、官僚として明王朝に仕えた。
まず王陽明は1516年から5年かけて、江西、福建南部での農民反乱、匪賊の鎮圧を行った。
次に1519年、明の宗室の朱宸濠が寧王の乱を起こすと、王陽明は朝廷から追討命令が出されていないうちに義兵を集め、朱宸濠が南京攻略のため不在となっていた反乱軍の本拠である南昌を落とし、寧王軍が慌てて戻ってきたところを撃破して朱宸濠を捕らえた。王陽明が反乱の一報を聞いたのが6月15日で、7月13日は吉安府(現在の江西省吉安市にあった)を出発、26日に寧王を捕らえている。電光石火と言っていい。
訓練されていない義兵を用いてだから、王陽明は軍事能力が飛び抜けて高いのである。
さらに特筆すべきことは、まだ残党が燻っているから皇帝が親征しようとすると、陽明は無用だと建白していることである。皇帝が北京を留守にすれば、北方の異民族が万里の長城を越えて攻めて来かねないと。並の戦略眼ではない。
最後に江西で反乱が起こって、朝廷から討伐するように命じられた。
陽明は病を理由に辞退したが許されず、結核を押して出陣、乱を平定して帰郷の途中で死んだ。
陽明学を学ぶ者は、学問自体より、王陽明になりたいと思って学問をする者が多い。
もっとも王陽明は乱世に生きたが、泰平の世に生きた陽明学の徒も多い。
中江藤樹は身分の上下を越えた平等思想を説いて、「近江聖人」と言われた。
藤樹の弟子の熊沢蕃山は岡山藩池田光政に仕え、日本初の庶民にも門戸を開いた閑谷学校を創設した。
また蕃山は浪人の子として生まれ、浪人救済に心を砕いていた。時は幕府の武断政治の時代で、幕府が大名を取り潰すために浪人の数は増える一方だった。
蕃山は兵農分離が農民の負担を増やしまた浪人となった武士が実質無職となる理由と考え、兵農一致を主張し、蕃山村(しげやまむら)で幕府が課した軍役を上回る負担に耐えられることを証明したりした。
蕃山は大名が弟子入りするほどのスターだったが、幕府の御用学者の林羅山に警戒され、由井正雪の乱が起こると、羅山は「正雪と同類」と蕃山のことを触れ回り、蕃山は隠居して大和国の吉野、に身を移し、さらに常陸の古河城に軟禁されてそこで死んだ。
陽明学の徒は、江戸後期には大塩平八郎がいる。
大塩平八郎天保の大飢饉で困窮する庶民を救うため、幕府に蔵米を民に分け与えるように献策したり、鴻池に自分と門人の禄米を担保に1万両を借りて貧しい者達に米を買い与えようとしたが、これらが全て失敗すると、民衆と共に決起して大塩平八郎の乱を起こす。
幕末にも吉田松陰高杉晋作西郷隆盛佐久間象山陽明学の影響を受けているが、特筆すべきは河井継之助だろう。

幕末の群像②~河井継之助が目指したのは「大政奉還」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、河井継之助大政奉還を目指して長岡藩の大改革を行った。そして継之助に大政奉還のことを教え、継之助が唯一生涯の師とした山田方谷陽明学の徒だった。

陽明学は『葉隠』に似ている。
「武士道といふは死ぬことと見つけたり」という『葉隠』は、「どちらか2つで迷ったら早く死ぬ方を選べ」と説く。この点、「正しいと思ったら何が何でも実行すべき」と説く陽明学に似ている。『葉隠』は純然たる日本が生んだ思想書だが、その内容に陽明学との共通点が生まれているのが興味深い。三島由紀夫は、陽明学も『葉隠』も評価していた。

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