『古事記』に登場する肥長比売は、本牟智和気御子と一夜を共にするが、肥長比売を垣間見れば蛇だったので、本牟智和気御子は恐れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らして追いかけてきた。
この本牟智和気御子と肥長比売の物語が、倭迹迹日百襲姫命と大物主神の物語へと変化する。倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻になったが、大物主神は夜にしか現れず、その姿を見ることができない。そこで姫がその姿を見たいと大物主神に言うと、大物主神は櫛笥の中から蛇の姿となって現れた。姫が驚いて声を上げると、大物主神は恥じて三輪山へと帰って行った。姫が腰を落とすと箸が姫の陰部を突いて、姫は死んでしまった。
本牟智和気御子と肥長比売の物語、倭迹迹日百襲姫命と大物主神の物語は、共に男が女の見てはいけない所、女が男の見てはいけない所を見たことにより事件が起こるが、男が女の見ては
いけない所を見た場合男は逃げ、女が男の見てはいけない所を見た場合は女は自分を責める。
それはイザナキとイザナミの頃から踏襲されている物語でイザナミが「うじたかれころろきて」となっているのを見たイザナキが逃げ、イザナミが追って離婚する。
本牟智和気御子と肥長比売の物語が、安珍と清姫の物語へと発展する。
安珍は熊野参詣で立ち寄った宿で清姫に夜這いをかけられるが、安珍は帰りに立ち寄ると言い逃れて去っていく。
欺かれたと知った清姫は蛇になって安珍を追いかけ、安珍は道成寺の鐘を降ろしてその中に隠れていたが、清姫は鐘に巻き付き、安珍を焼き殺してしまう。清姫は入水自殺をして死ぬ。
この安珍清姫伝説で、初めて男が罰を受ける。
安珍清姫伝説の舞台の道成寺にはもう一つ、髪長姫の伝説がある。
髪長姫とは元々は仁徳天皇の妃で、仁徳の父の応神天皇に仕えていたのを仁徳が頼んで貰い受けた女性のことだが、ここでの髪長姫は文武天皇の妃で聖武天皇の母になる、藤原宮子のことである。
宮子は紀州の海人の娘として生まれたが、生まれた時から髪の毛がなかった。
ある時、沖に光るものがあり、そのために魚が取れなかった。宮子の母は、それを確かめに行くと村の者達に名乗り出た。宮子の髪が生えないのは自分の行いが悪かったからで、沖に光るものを確かめれば、神様が許してくれるかもしれないと宮子の母は思った。
宮子の母は、海の中に入ってそれを引き上げた。それは金色の観音像だった。
観音像を引き上げた宮子の母は、そのまま息絶えた。
すると宮子の髪がみるみる生え、その髪の長さにより髪長姫と呼ばれるようになった。
ある日宮子の髪の一本をツバメがくわえ、その髪で都の藤原不比等の屋敷に巣を作った。藤原不比等はその髪の主を探し出し、宮子を養女に迎えた。
髪長姫の物語は、時間の流れを逆にすることで読み解くことができる。つまり宮子が出家する物語である。もっとも、歴史上の宮子は出家をしていない。
本牟智和気御子と肥長比売の物語も、時間を逆にして読めそうである。
本牟智和気御子は垂仁天皇の子だが、実際は垂仁の妃の沙本毘売と、その兄の近親相姦の子ではないかと思っている。本牟智和気御子は唖だったが、それは近親相姦によって生まれたためのインセストタブーの話である。本牟智和気御子は、出雲大神(大国主)を拝して言葉が話せるようになる。
しかし、本牟智和気御子が肥長比売から逃げて唖になったという解釈も可能である。
藤原不比等にはもう一人娘がいる。聖武天皇の皇后になった藤原光明子である。
光明皇后には一つの伝説がある。
光明皇后は貧しい人々のために浴室を作り、千人の垢を摺ると願をかけた。千人目にハンセン病の患者が現れたが、皇后はその患者の垢を摺り、患者の願いにより膿を吸い取った。するとその患者は阿閦如来であることを明かした。
光明皇后は現実に出家している。宮子と光明子は嫁姑の関係だが、不比等の娘という点で同じであり、宮子=光明子である。
羽衣伝説は、基本は天女が天の羽衣を男に奪われ、天女が男の妻になり、天女が天の羽衣を取り返して天に帰る物語である。しかし『丹後ク風土記』の羽衣伝説は違う。
天女から天の羽衣を奪ったのは、和那佐という老夫婦で、天女の天の羽衣を奪い、自分達夫婦の娘になるように言う。天女が承諾すると、「なぜ嘘をつくのか」と老夫婦は言う。「天人の志は真実を基本としています。なぜそんなに疑って衣装を返してくれないのですか」と天女が言うと、「この地上では疑心が多く真実のないのが普通のことなのです。そんな思いから衣を返すまいとしただけです」と老夫婦は言って天の羽衣を返した。
天女は酒造りが上手で、老夫婦の家は繁盛したが、ある時老夫婦は天女を追い出してしまう。
天女は人間世界に落ちぶれたために天に帰ることができない。天女は各地を放浪し、奈具の地に留まる。
天女は老夫婦の家を追い出されたのでなく、約束を違えて天に帰ろうとしたから天人の資格を失い、天に帰れなかったのである。
この羽衣伝説が、『竹取物語』に発展する。
竹取の翁が光る竹からかぐや姫を見つけ、自分達の子として育てると、竹の中から金を見つける日が続き、翁の家は裕福になる。
かぐや姫は多くの求婚者を退けて月に帰る。かぐや姫は罪を犯したので翁のところにわずかの間くだされていたが、その期限は過ぎたと言う。そしてかぐや姫は、天の羽衣を着て月に帰る。
かぐや姫は地上で罪を犯していない。だから月に帰れる。
そして丹後以外の羽衣伝説では、天女は男に天の羽衣を奪われるが、天の羽衣を取り戻して天に帰る。
髪長姫伝説で、宮子の母は「自分の行いが悪かったから宮子の髪が生えない」と思っていた。宮子の母は観音像を引き上げて死ぬ。
以上を総合すれば、女性の罪は偽りの男との交際であるとわかる。女性が好きでもない男を好きだと思って交際することが罪なのである。
以上の物語群の集大成が、老ノ坂の子安地蔵の物語である。
老ノ坂とは京都市と丹波亀山の間はある山で、明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったことで有名な場所である。別名を大枝山といい、また大江山ともいう。
宮津市にある、酒呑童子退治の大江山と同名である。また老ノ坂にも酒呑童子退治の話がある。
距離がそれほど離れていない2つの山に、なぜ同じ名前がつけられているのかはわからないが、大江山には元伊勢の豊受大神社がある。祭神は豊受大神であり、『丹後国風土記』の天女も豊宇賀能売命(豊受大神)である。そのことと関係するのかもしれない。
丹波の佐伯の郡司あきたかの娘桜姫は清水寺の観音の申し子で、桜姫に婿を取ろうと親子三人で清水寺に参詣した時、寺の若僧の式部卿清玄が桜姫に一目惚れした。清玄は歌を短冊に書いて落とし、桜姫はそれを拾って懐にしまう。
桜姫が婿を取って祝言を上げると、空から光が降ってきて、光の中に心という字が現れて、その字が美しい男の生首になった。婿はそれを見て逃げ出した。
二人目の婿にも同じ理由で逃げられ、三人目の婿になった田辺みきのじょう吉長は、生首が現れるとその首を切りつけた。
吉長が桜姫に怪異が現れた理由を聞くと、「清水寺で短冊を拾ってから短冊の主の若僧が現れるようになった」と答えた。
吉長は清水寺の住持に会い、「私はあきたかの長男ですが、妹の桜姫が死んだので代参に来た」と述べた。
すると清玄が寄ってきて、事情を聞こうとした。
吉長は「桜姫が逢いたがっていた若僧はあなただったのですね。今生の縁は切れたと思い、供養なさって下さい。丹波にお越しくださるには及びません」
と言ったが、清玄は丹波に向かい、宿で桜姫が婿を取って今日が最初の吉日だという話を聞いて激怒する。
清玄は祝宴の最中に乗り込んで、吉長に深手を負わせる。清玄は桜姫も斬ろうとするが、間一髪のところで吉長に首を刎ねられる。
吉長は有馬の湯に21日間浸かって傷が全治する。
桜姫は大願成就乗り込んで祝いに新しい湯屋を寄進する。ある時一人の病人を姫が手ずから垢掻きをすると、病人は「薬師如来の背中を流したこと他言してはならぬ。清玄は地獄で、次いで畜生道で苦しむ。汝の罪は重い。早々に仏門に入れ」と言って虚空に消えた。この時姫は懐胎していた。
姫は髪を降ろして旅に出て、呉服神社で産気づいた。そこから5町ほど行った一軒屋でで男子を出産し、宿の主人に身の上を話して死んだ。
吉長は姫を探しにその宿を訪ね、姫の遺骸と男子を引き取った。
姫の魂は中有を彷徨い、畜生道にいた清玄が姫を見つけて、蛇になって姫を追ってきた。姫は逃げたが前には水火二河の白道がある(火は怒り、水は欲望を表す)。姫が念仏を唱えて白道を渡ると弥陀の名号が剣となり、蛇の頭を切り落とした。
姫は極楽に迎えられ、身重の女性を守る子安地蔵となった。
洋の東西を問わず、神話は男女の恋愛を禁じている。ギリシャ神話のアポロンとダフネもそうだし、『常陸国風土記』にも愛し合う男女が人に見つかるのを恐れて松になった話がある。
女性の罪とは言い寄る男を退け、真に愛する男と結ばれることである。女性が真に愛する男と結ばれるのは、これほど大変だったのである。
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