坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

『男衾三郎絵詞』から老ノ坂の子安地蔵まで

男衾三郎絵詞』という絵巻物がある。

武蔵大介という武士には、吉見二郎と男衾三郎という二人の息子がいたが、吉見二郎は都ぶりの色好みの男で、都から上臈を妻に迎えて、観音菩薩に祈願して慈悲という娘を授かる。

慈悲には数多くの求婚者が現れて、その中から上野国の大名の息子難波の太郎が選ばれた。吉日は3年後の8月11日と出たのでそれに従った。

一方、弟の男衾三郎は美人を妻にするのは短命だとして、坂東一の心身共に醜い、身長七尺もある醜女を妻とし、3男2女の醜い子供をもうける。

吉見二郎は大番役で京に向かう途中、山賊に襲われて落命し、男衾三郎は兄の所領を横領する。

兄の妻子を下働きとしてこき使い、難波の太郎には慈悲母子は悲しみのあまり死んだと告げる。

男衾三郎夫婦は難波の太郎に、自分達の娘を目合わせようとするが、難波の太郎は慈悲母子後世を祈って出家する。

新任の国司が男衾の屋敷を訪ねて、端女の慈悲に一目惚れするが、男衾夫婦は自分達の娘を国司に差し出そうとする。しかし国司は相手にしなかった。

 

現存する物語はここで終わりで、本来2巻があったというのが研究者の見方である。

2巻があれば、そこで慈悲は救われ、難波の太郎と再び結ばれ、男衾夫婦は何らかの罰を受けただろう。

しかし私の見方は違う。『男衾三郎絵詞』の2巻で最初から作られなかったのである。

 

男衾三郎は『アンゴルモア』にも登場し、やはりろくでもない男だが、男衾三郎の正体を暴くヒントがある。

肥長比売から老ノ坂の子安地蔵の物語まで - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いていて気づいたが、桜姫の婿の田辺みきのじょう吉長は摂津国多田庄出身である。実在の人物で摂津国多田庄に住んでいた人物がいる。清和源氏2代目の源満仲、源氏武士団の創設者である。

「ただのまんじゅうぶしのはじめ」と言われる源満仲だが、後の源頼義八幡太郎義家のような華々しい武功は満仲にはない。安和の変源高明を密告したような、政界の裏で暗躍したような話ばかりである。 

その満仲にも、いくつかの伝説がある。出家して説教を受ける時に、殺生戒のところで何度も寝てしまったとかである。

満仲のもうひとつの伝説は美女丸の話である。

満仲には美女丸という息子がいて、中山寺に預けられていたが、修行に身が入らないということで満仲は大いに怒り、家臣の中光に美女丸を討てと命じた。

中光は主君の子を討つのに大いに悩み、中光の子の幸寿丸が美女丸の身代わりになると言った。

中光は主筋の子を討つべきか自分の子は討つべきか悩み、終に幸寿丸を討って、満仲に首を差し出す。美女丸は比叡山に逃れさせた。満仲はさすがに我が子と思う首を実検しなかった。

月日が流れ、多田に源賢という僧が訪れた。源賢は幸寿丸が身代わりになったと知って修行に励んだ美女丸だった。真相を知った満仲は己を恥じて出家した。

中光とは満仲のことで、自分の子を殺したことでは代わりない。しかし真に殺したのは、息子ではなく美女である。

 

桜姫が清水寺の観音の申し子であり、吉見二郎の娘の慈悲が観音に願って授かった娘であることから、ある結論が導き出せる。

それは美人とは正しさであり、通い婚の象徴である。

武士は嫁入り婚を行ったが、嫁入り婚は公家から見て低い身分の者が行う婚姻だった。また通い婚の正しさを攻撃することも難しかった。通い婚による婚姻が、女性の選んだ結果であることは否定できないのである。

しかし武士もまた、通い婚の嘘を見抜いている。恋愛の結果としての通い婚の婚姻は、女性の真実の愛が捻じ曲げられている。つまり通い婚により、女性は真に愛すべき人がわからなくなっている。

嫁入り婚は真実の愛で結ばれていないかもしれないが、真に愛すべき人を他の男の干渉によりわからなくさせられるという弊害がない。西洋のような恋愛の伝統がない日本では、それが武士の言い分であり、また限界であった。

 

田辺みきのじょう吉長とは、源満仲のことである。

武士の中には悪源太義平とか、悪党楠木正成とか、「悪」の字がつく人物がいるが、歴史的には「悪」とは悪いという意味ではなく、「強い」という意味だと説明される。しかしそれは半分の真実でしかない。

大国主の別名は葦原色許男であり、第九代開化天皇の母は鬱色許売命、継母であり開化天皇の妃となったのは伊嘩賀色許売命である。

「シコオ」「シコメ」もまた、「醜い」でなく「強い」の意味だと説明される。しかし「シコオ」「シコメ」もまた「悪」を意味し、「正しさ」に勝てない時に、自らを「悪」と規定して、その上に真実を見出すのである。つまり美女を切った満仲は、田辺みきのじょう吉長として、真に愛すべき女性を見つけるのである。

 

武士に嫁入り婚を推奨した最初の人物は、私は平将門だと思っている。

将門は叔父の平良兼と「女論」で争ったというが、「女論」の詳細は伝わっていない。私は将門は、通い婚をやめて嫁入り婚にすべきだと主張したのだと思っている。

桓武天皇五世の孫の将門による、坂東独立王国の夢は潰えた。満仲は反逆、独立しない形で、女性についての思想を将門から受け継いだ。それが自らを悪と規定することだった。

老ノ坂の子安地蔵の物語の、桜姫が産気づいたのが呉服神社であったのは面白い。呉服神社は大阪に池田市にあり、多田庄の目と鼻の先である。祭神は仁徳天皇で、髪長姫を思わせる。仁徳の髪長姫への想いも、道ならぬ恋だったのだろう。

産気づいた桜姫は、老僧に「産褥で社殿を汚してはならぬ。ここから5丁行った里で産をせよ。自分は清水の者である」と言われ、5丁行った一軒屋で子供を産んだ。桜姫は清水寺の観音の申し子である。清水寺には清玄がいて、一見桜姫と敵対しているようだが、5丁歩けば桜姫は多田庄に入ったかもしれない。そうだとすれば、田辺みきのじょう吉長は婿入りしたのではなく、桜姫が嫁入りしたことになる。清水寺はしっかり桜姫の背中を押している。

男衾三郎が醜女を妻としたのも、美女という正しさを否定するためであり、上野国出身の慈悲の息子が難波の太郎なのも、難波の太郎が満仲、または摂津源氏だからである。難波の太郎は出家することで慈悲を離別する。

 

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