坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

大将が最前線で戦うこと、一騎打ち

ギルガメシュ叙事詩』では、暴虐を極めたウルクの王ギルガメシュを懲らしめるため、神々がエンキドゥを作る。
ギルガメシュはエンキドゥと争うが勝負はつかず、ギルガメシュとエンキドゥは無二の親友となる。
トロイア戦争の英雄アキレウスは、親友パトロクロストロイアの総大将ヘクトルに討たれ、ヘクトルに一騎打ちを挑んで仇を討つ。
どちらも、神話の話である。

戦争では、総大将が死ねば、近代以前は軍隊が総崩れとなる。だから総大将には、安全な後方にいてもらった方がいい。
ところが、総大将が前線で戦うことがある。
良い例が、アレクサンダー大王
ポンペイのモザイク画に見るように、イッソスの戦いでアレクサンダーは最前線で戦い、敵のペルシア王ダレイオス3世に肉薄している。
アレクサンダーだけでなく、ローマのカエサルガリア戦役では一兵卒の役割も努めたというから、カエサルも前線で戦ったのである。
戦争で大将が前線に出るのは不合理だが、もっと不合理なのは、武将同士が一騎打ちをすることである。
せっかく軍隊という、敵を殲滅するのに最も効率のいい組織があるのに、その機能を一騎打ちという形で停止してしまうのである。
それでも一騎打ちなどという、軍事的に無意味なことを軍隊はしばしばするのである。
平安、鎌倉の頃の武士達などがまさにそう。
「やあやあ我こそは」とみんな言って名乗りを挙げて一騎打ちをする。
もっとも「切り取り強盗武士の習い」というくらいの武士だから、汚い手は使った。夜討ちもするし暗殺だってする。源義経の奇襲作戦に従い、「ちゃんと軍隊してんじゃん」と思わせてくれる。
それでいて、「ちょっとは軍隊らしくなったか」と思うと、やっぱり「やあやあ我こそは」と、いくさを一騎打ちの集合にしてしまうのである。
武士の発生からしばらくの間、武士は自分達を有害な存在と見なしていた。貴族達に対して自分達が正しく生きているとは思えない時代を長く生きていた。 
だから正しさの代わりに、自分達の命のきらめきを戦争で示そうとして、自らがある先頭に立って戦い、また一騎打ちをする。

三国志』などでも、関羽張飛などの部将クラスはよく一騎打ちしたりしている。
本当かどうかはわからない。それでもこう言える。
国家やそれに準ずる組織は、自らの権威を得るために、大将自ら先頭に立ったり、大将が一騎打ちをしたりする時期が必ずあるということである。
西洋の騎士も、よく一騎打ちをしている。
織田信長尾張統一までの間、自らが先陣に立って戦った。しかし美濃攻めのあたりから、中軍に位置するようになる。
ローマはカエサルは一兵卒の役割もやったが、その後のローマ皇帝は最前線で戦う必要はなくなった。
大将が最前線で戦うか、一騎打ちをするかは、権威の裏付けの有無と同時に、その軍隊のリアリズムの度合いにもよる。
世界を席巻したモンゴル軍は、部将でさえ一騎打ちをしたという話は聞いたことがない。またナポレオンは、私の知る限り、たったの一回しか最前線に立ったことがなく、その時以外は全て後陣で指揮を採った。
大将が先頭に立つことは、権威を手に入れるのに一番有効な手段であったりする。

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