坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

復讐、一騎討ち、決闘

復讐と一騎討ち、決闘について考えてみたい。

復讐については、『ヴィンランド・サガ』や『乙嫁語り』で述べられているように、近代警察制度ができるまでは、普遍的なものだった。

一騎討ちというのは、『イリアス』でアキレウスヘクトルが一騎討ちをしているように、これも世界中にあるものだが、軍隊が勝利を得ることに特化してくると、一騎討ちというのはしなくなる。

将軍が戦闘をしないということではない。一対一で第三者が介在しないという戦闘は行われないのである。カエサルは将軍でありながら一兵卒もやったかもしれないが、一騎討ちなどはやらない。ローマ軍もモンゴル軍もナポレオンのフランス軍も、一騎討ちなどやらない。兵士の勇猛さや強さ、集団としての軍隊の強さと一騎討ちに相関関係はない。

復讐はすなわち決闘であるということはない。『水滸伝』の行者武松は、兄の仇の西門慶と兄嫁の潘金蓮を殺すが、決闘はしていない。

仇討ちと決闘が習慣としてひとつになっているのは、日本とヨーロッパである。

日本とヨーロッパで共通しているのは、「正しさ」という光源があることである。ヨーロッパではキリスト教という正しさの光源があり、日本では律令制度と、それを体現する天皇と、その藩屏たる貴族達が正しさの光源だった。

その正しさの前に、ヨーロッパの騎士も日本の武士も、自らの命を的にして、できるだけ駆け引きの要素を少なくする形で戦い、自らの外にある光源にではなく、自らの中に光を見出すしかなかった。

その光源、キリスト教律令制度、天皇や貴族に対し、自らを正しいとしたのではなかった。ヨーロッパの武士や日本の武士は、その光源に逆らうことなく、ただ自らの中にある光を信じたのである。

特に日本の武士の場合、武士の発生当初は一騎討ちを主体にしていたことである。これは実に痛ましいことで、「切り取り強盗武士の習い」という、もう一つの武士の観念の対極にある行動である。この一騎討ち中心の思考により、軍隊としての武士団の攻撃能力は発展が遅れることになる。

軍隊としての攻撃能力を高めることは生きることにつながるが、その生存本能に逆らって一騎討ちをすることが、「正しさ」という光源にさらされながら、自分の中に光を見つけ出す重要な行為だった。

その見つけた自分の中の光が、西洋の騎士の場合は恋愛であり、日本の武士の場合は通い婚に対する嫁入り婚だった。

武士はよく切腹する。いくさに負ければ、城が落ちれば切腹する。切腹するのは、武士が非承認される立場だったからだろう。

そのように非承認され、切腹する武士だからこそ『葉隠』を生んだ。「武士道というは死ぬことと見つけたり」という『葉隠』は、「若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也(図にはずれて生き延びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である)」という。『葉隠』の意図は、真に心の自由をえる道を示すことにある。

 

古代史、神話中心のブログhttp://sakamotoakiraf.hateblo.jp/もよろしくお願いします。