日本人の正しさばかりを求める姿勢を見ると、うんざりして付き合いきれないと思う。日本人はみんな正しさ真理教、いや正しさ真理病である。
LGBT法案で自民は相当叩かれている。か弱い女性や子供が犠牲になると。しかしそもそもの間違いは、LGBT法案は正しさを求めたものではないと言うことである。
LGBT法案は内面の自由を社会に表現することを認めるためのものである。女性や子供を守るためのものではない。
最近、岸田首相の息子が首相官邸の階段で寝そべっている写真が暴露され、散々に叩かれたが、あれの一体何が悪いと言うのだ?そんなこともろくに考えずに、見た目だけ正義らしい行為に飛びついて、敵に対して撫でるような攻撃をして満足している者は、一生他人の思い通りになる人生を送るだろう。
戦前に特攻機に乗って死んだ者は、自分が正義だと思って死んだだろうか?
本来完全な志願制に過ぎない特攻隊に、世間の目を気にして、本当は死にたくないのにイヤイヤ特攻機に乗り込んで突っ込んでいく。犬死に以外の何者でもない。
私は戦後の、「あの戦争はほんとは負けると思ってたんだ」と口々に言う、生命力と浅ましさのある日本人が好きである。死にたくもないのに世間の目を気にして、イヤイヤ特攻機に乗る日本人は大嫌いで、本当は死んでも何にも同情していない。
で述べたように、秀吉以降、日本人は正しいという根拠が与えられなければ何もできない民族になってしまった。
秀吉以前はそうではなかった。
『男衾三郎絵詞』から老ノ坂の子安地蔵まで - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で述べたように、武士は自分を悪と規定して、その上で自らの真実を探り当てた。世間に同調して、誰かに正しいと認められないと不安で仕方ないという精神の未熟さを、武士は持っていなかった。「切り取り強盗武士の習い」、それが武士である。そういう武士の精神があるからこそ禅が流行したのであり、武士は善も悪も、自分の意思で行えたのである。
今の日本人は、武士と比べて同じ日本人かと思うくらいに精神がみみっちい。
人間は所詮正しく生きられないのである。
「そんなことはない」と思う人は、道徳と正義を履き違えているのである。
正義とは、秩序を創設、または維持することをいう。
殺人犯が凶器を持って市中に逃走しようとして、警官がそれを撃った。これは正義の行為である。しかし道徳とは、「人を殺してはいけない」ということなのである。殺人犯を撃つことが道徳ならば、死刑囚の死刑執行に執行者が罪悪感を感じることはないだろう。
人間は何をしても、誰かを傷つけ、誰かの不利益になることをするのである。自分が正しく生きているかに拘るのをやめ、自分の中に悪があるのを認めて生きよ。
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