坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

歴史についての雑感

日本は元々分権的な国家だったが、中国に隋、唐という統一国家が誕生することにより、国防のために隋、唐の国家制度を模倣した。それが律令制度の導入だった。
しかし律令制による中央集権体制を崩そうという動きも現れる。723年に三世一身法、743年に墾田永年私財法が制定され私有地が認められることで公地公民制が崩れていった。
兵役も唐の衰退に伴い、正丁(21歳から61歳までの成年男子)の三分の一と定められていた兵役が排され、健児の制といって、郡司の子弟と百姓の中の武芸に優れた者のみに兵役を課すようになった。健児は全国51ヶ国で3155人。事実上の軍隊の解散である。
平安時代の貴族達は、律令による中央集権体制を崩壊させ、軍隊を解散したことについて負い目を感じていた。
貴族が武士を「東夷」と呼んで蔑んだのは、国を守る意識を捨てた負い目の裏返しである。

源頼朝は伊豆の流人で、数人の郎党しか持たなかった。
その頼朝が鎌倉幕府という、全国規模の政権を作った。頼朝が34歳で挙兵し、奥州藤原氏を滅ぼすまでわずか9年のことである。
このことは頼朝が源氏の御曹司であり、源氏が東国に大きく根を張った大武士団だったことを考慮しても、異様に速い栄達であり、わずか数人の郎党を持つ程度でしかなかった頼朝が、十年も満たずにこのような大発展をするのは不可能である。だから姻戚の北条氏と合わせてひとつの家とすることで全国政権を樹立したと考えるべきである。北条氏は伊豆のナンバー2の豪族である(ナンバー1は伊東氏)。伊豆のような小国でも、100人を超える郎党を抱える家なら、勢力を拡大して頼朝の全国政権を支えるようになるのも不可能ではない。
頼朝は、御家人に公平であることで御家人の信頼を得てきた。頼朝は義経のような兄弟でさえ、他の御家人と同列に扱わざるを得なかった。義経のような頼朝の弟や、行家などの叔父は頼朝によって粛清され、その分御家人は大きな利益を得た。
頼朝による鎌倉幕府の設立が、武士にとって大きな魅力となった。
頼朝の子孫の姻戚になれば、特に大きな利益を得られる。こうして頼朝の死後、頼朝の子孫や、他の源氏を押し立てて、その姻戚になって勢力を拡大しようという動きと、それに対抗する北条氏が対立した。その結果頼朝の血筋は頼朝の孫の貞暁のみが生き残り、他の頼朝の血筋は絶えた。
源氏の魅力は頼朝の子孫だけでなく、頼朝から遡って八幡太郎義家の子孫まで広がった。八幡太郎義家は後三年の役で、白河法皇にその功績を認められなかったため、自腹を割いて家臣に恩賞を与えたという逸話があった。全国の武士は、八幡太郎の子孫を担いで将軍にすれば、莫大な恩賞をもらえると期待した。
このままでは御家人に多くの土地が分配され、幕府の屋台骨が揺らいでしまう。そこで北条氏は、三代将軍の実朝に子がいないのをいいことに、朝廷から親王を鎌倉から迎え入れて将軍にしようとした。朝廷から断られ、実朝が公暁に暗殺されると、宮将軍の代わりに頼朝の妹の孫で、まだ2歳の藤原頼経を将軍にした。
日本の制度では血族集団であり、天皇から与えられた氏は変えられないが、3歳までなら氏を変えていいことになっている。頼朝の血縁である頼経を源氏にするのかと御家人に期待させておいてます頼経を藤原姓のままにして源氏将軍への期待を断った。後には親王を迎え入れて将軍にした。
北条氏の偉大さは、源氏でない将軍を立てて、自らは執権として権力を握り、御家人達の際限のない欲望を抑制したことにある。
鎌倉幕府室町幕府を比較してみれば、そのことはよくわかる。足利義満足利義教のような将軍の権力強化を謀る人物達をもってしても、室町幕府にかかる遠心力を止めることはできなかった。
北条氏の特徴は一族の結束か固いことで、泰時の子の時氏から時宗の代まで、北条氏嫡流得宗家には短命の人物が続くが、その度に分家から執権に就く者が現れ、それでいて分家が得宗家を立てることを忘れなかった。元寇の後は幕府の屋台骨が揺らいだせいもあるが、北条氏が全国のうち40ヶ国の守護を務めるまでになった。平氏政権を超える一門の繁栄である。
北条氏は他の御家人が源氏を立てて反旗を翻さないように、源氏の「嫡流」を作ることまでした。それが足利氏で、御家人がそれぞれ源氏の誰かを立てて反乱を起こすよりは、「嫡流」である源氏をこしらえて自家薬籠中のものとした方がいいと考えたのである。しかしその足利氏から足利尊氏が出て六波羅探題を滅ぼし、また足利氏の祖の足利義康の兄の新田義重を祖とする新田氏は、足利氏より冷遇されたの恨みで北条氏を滅ぼしてしまう。それでも、室町時代は北条氏が作ったのである。

天守閣のある城は、元々は天下人、つまり信長や秀吉のものだった。
大名は天守閣を建てることは許されなかった。

で述べたように、天守閣は天下人の居住空間で、天皇を見下ろすために作られたものである。大名が天守閣を作れば、その大名に「天下への野心があるか」と疑われてしまう。だから信長や秀吉の時代は、大名は天守閣を建てるのを遠慮した。
大名が自らの城に天守閣を建てるようになったのは、江戸時代に入ってからである。
その理由は、徳川将軍家が居城の江戸城天守閣を居住空間にしなかったからである。信長も秀吉も天皇を超えようとした。徳川家も天皇以上の存在になろうとしたが、徳川家は将軍のままで良かった。いつか天皇を見下ろしてやろうとは思わなかったのである。
徳川家が天守閣を居住空間にしなかったのは、諸大名へのリップサービスでもある。つまり大名も天守閣を作りたかった。
太閤検地により大名の収入は上がっていたが、朝鮮出兵のため大名には城を建てる金がなかった。
また楽市楽座や関所の廃止により、大名はそれまでの山城から利便性の高い平野に城を築きたいと思うようになっていた。
そういう大名の要求に家康は応えて、天守閣を居住空間にしなかった。こうして各地に天守閣のある城が見られる、日本の風景が出来上がったのである。

古代史、神話中心のブログhttp://sakamotoakiraf.hateblo.jp/もよろしくお願いします。