坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

中国史上唯一の女帝武則天

武則天

唐王朝の高宗の皇后となり、遂には中国史上唯一の女帝として唐を中断し周を立てたのが武則天、以前は則天武后と呼ばれていたが、これは皇后としての呼び名なので、古来より「則天」と通称で呼ばれていたのを、姓の武を冠して武則天と呼ぶのが一般的になっている。

武則天は名は曌である。曌は則天文字、つまり武則天が制定した文字であり、曌は照に対応するということで、彼女の名を武照と記す書物もあるが、「武照」と書かれた一次資料は存在しない。この時代、皇后にでもならなければ女性の名前は残らないので、曌は武則天が政治の実権を握ってからつけた名である。

後世武則天と呼ばれる武氏は最初、高宗の父の太宗の後宮に入った。高宗の後宮でなくそのお父さんのね。637年、武氏14歳の時である。

しかし武氏は太宗に遠ざけられた。「李に代わり武が栄える」という流言があったからだというが、武氏のような人物が台頭する場合によく作られる伝説だろう。

太宗が死に、武氏は出家することになって感業寺という寺に入った。しかし偶然にも、武則天は皇太子時代の高宗の目にとまっていて、太宗の命日に参詣した高宗と再会した。武氏は還俗して高宗の後宮に入った。650年、武氏27歳、高宗23歳。武氏は高宗より4歳歳上だった。

昭儀という後宮の地位を得た武氏は、高宗との間に生まれた女児を自分の手で絞め殺す。そしてその罪を高宗の皇后の王氏になすりつけ、王皇后を廃位しようとした。

武氏改め武昭儀は、この後の動きを見ても母性本能を欠いている。母性本能を欠いているのが武則天の特徴というしかないのだが、こうまでしてしたいことがあるのが武則天である。

武昭儀の王皇后排斥運動は、最初は重臣の長孫無忌に反対されて頓挫する。

しかし次第に武昭儀が優勢となり、武昭儀を皇后に冊立する動きが活発化する。

長孫無忌をはじめとする旧臣に対し、武昭儀は新興勢力の官僚を味方につけていく。ここが武則天の人材登用の才で、後の玄宗皇帝の代も武則天が登用した人材が活躍している。そして功臣の李勣の協力を得て、武昭儀は皇后になる。王皇后と蕭淑妃は庶人に落とされ、罪人として投獄された。さらにその上、王皇后と蕭淑妃は棍棒で百叩きにされて斬殺された。武氏の皇后冊立に反対した太宗以来の功臣褚遂良は左遷。

武皇后は病気がちな高宗に代わって政治を行った。

しかし武皇后は王氏と蕭氏の亡霊を見るようになり、長安城の宮城から蓬莱宮(大明宮)に移り住んだが、ここでも亡霊が現れる。それでとうとう洛陽に滞在することが多くなった。しかしこれには裏があった。

長安朱雀門街をメインストリートとしたシンメトリーの原則に基づいた街で、皇帝はこの中心線上の太極宮にいる。

しかし武皇后が大明宮に移れば、皇帝を中心としたシンメトリー構造を打ち破ることができる。洛陽はもっとアンシンメトリーで宮城が北西にある。こうして武皇后は、自分が中心となる政治構造を作り出そうとした。

太宗は唐皇室を頂点とする支配秩序を作るため『氏族志』を作ったが、武皇后も武氏をトップの家柄とする『姓氏録』を作った。

また武氏は則天文字を制定したように、文字に対し特別な霊威を感じていたらしい。

なにしろ改元、つまり元号を変える回数が、高宗の時代に13回、高宗が死んで皇太后になってから6回、皇帝になってから13回改元したのである。

高宗を天皇(てんこう)と呼ばせ、自分を天后と呼ばせる。元皇后の王氏の一族の姓を「王」から「蠎(うわばみ)」に、淑妃の蕭氏の一族の姓を「蕭」から「梟」に変える。腹を立てた相手の名前を変える報復のやり方は、後に武則天の「後輩」というべき日本の称徳天皇が真似をした。そして洛陽を神都と改名し遷都する。



高宗が死ぬと子の中宗が即位したが、中宗は義父を門下侍中(門下省の長官)に任命しようとして宰相に反対されると、「国を譲ることもできるのに、侍中の位なんぞ惜しくもないではないか」と不用意な発言をしてしまった。

そのため中宗は武太后によって廃位され、弟の睿宗が即位した。もちろん睿宗は武太后の傀儡である。

天子の特権である7人の祖先を祀る武氏七廟を立て、皇帝になる野心を露わにして反対派をあぶり出す。

また密告も奨励され、酷吏と呼ばれる者も現れる。

しかし一方で反乱軍の檄文が名文だったので誰が書いたのかと尋ね、詩人の駱賓王だと聞くと、「このような人材を地方に左遷したのは宰相の過ちである」と武太后は述べた。人材重視の姿勢は一貫しているのである。

そして『大方等無想大雲経』という経典に、釈迦の女弟子浄光天女が生まれ代わって女王になるという予言書があり、経典の内容を改竄し、浄光天女と弥勒菩薩を同一化した。この『大雲経』を備えた大雲寺を各州に建立した。この大雲寺は日本の国分寺国分尼寺のモデルである。

こうして帝位簒奪の理論武装をして、690年、武太后は皇帝に即位し、武氏は姫姓であるとして国号を周とした。これを武周革命という。武則天は自らを聖神皇帝と称した。

老子の子孫を称し道教を国教とした唐に代わり、武則天は仏教を保護した。

 

武則天の最大の問題は後継者であり、武氏の王朝なら李氏である息子でなく、武氏の者に帝位を継がせるべきだった。武則天の甥達もその気だったが反対意見が多く、とうとう中宗を再び皇太子にすることになる。

老齢ながら、それでも武則天皇位にしがみついた。しかし705年、宰相の張柬之がクーデターを起こし退位を迫り、遂に武則天は退位し、唐が復活した。退位にあたり、中宗は武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉った。その年の12月に武則天崩御した。

 

高宗と武則天が建立した奉先寺の本尊の顔は、武則天のそれを写したという説がある。

奉先寺大仏

武則天が日本に与えた影響は大きい。

日本の光明皇后は貧民や孤児の救済のために悲田院を、怪我や病気の治療のために施薬院を設置したが、これも武則天が設置した悲田養病坊がモデルである。

この時代は、日本が律令国家の確立に邁進した時期である。しかし高宗の時代に突厥を服属させ、高句麗を滅ぼしたのを頂点にして、その後は突厥第二帝国の成立、唐からの独立、高句麗の地には渤海の成立と、東アジアでの唐の覇権は徐々に崩れていった。

また唐の支配層は、それまで建国に貢献した鮮卑系軍人や門閥貴族第二たが、武則天以降は科挙に合格した官僚が支配層を形成していった。

 

武則天が定めた則天文字は、日本でも徳川光圀の「圀」の字など、わずかに使われている。

 

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