坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

神話が書かれる前に歴史が始まった中国

司馬遷

J・J・バッハオーフェンによれば、母権制社会が父権制社会に移行する過程で構築されたという。
それに加えて、私は神話は民族、国家を確率する時に誕生すると考えている。
神話は最初口承で伝えられる。
口承で伝えるから、伝えられる神話の内容は短い。
しかし社会が発展してくると、神話を文字で残そうという強い衝動が社会の中に生まれる。
神話は、最初は神話を文字で記そうとする動きに抵抗する。
文字は、既に多くの民族が使用しているが、なかなか神話を文字で記そうとはしない。
神話は文字で書かれることに抵抗するがその間に神話を記す欲求は益々高まり、短くてバラバラだった神話は体系化され、壮大な物語となる。
そして神話が書かれた後に、歴史が書かれる。ギリシャローマ神話や日本神話は、概ねそのようにして成立している。

中国は、このような流れとは異なる経過をたどった。
「歴史の父」は、東洋では司馬遷、西洋ではヘロドトスだが、中国では司馬遷の『史記』以前にも歴史書がある。
『春秋』という。孔子が編纂したと伝えられているが、孟子などの儒者が主張していることであり信憑性は低い。
『春秋』は東周の前半、洛陽への都の移転から晋の分裂までが書かれている。
いわゆる西周時代も、その前の殷王朝も夏王朝も記載がない。当然その前の三皇五帝もない。これでは歴史を通して記述したことにはならない。
『春秋』は、孔子の思想を歴史で記したものである。
また神話については、戦国時代から前漢の時代までに成立した『山海経』があるが、『山海経』は地誌であり、神話を記すことを目的にした書ではない。
だから中国の歴史を起源から記述した司馬遷は「歴史の父」なのである。

なお、起居注というものがある。中国の歴代の王朝の皇帝の言動を記した。日記体の官撰記録である。
斉の荘公の家臣の崔杼が荘公を殺すと、「崔杼、その君を弑す」と大史が起居注に書いたので、崔杼はこれを殺した。すると後をついだ大史の弟も同じことを書いたのでこれを殺すと、この二人の弟が同じことを書いたので、崔杼はとうとうこれを赦した。
歴史の事実を書く執念として引き合いに出される話だが、『史記』以前に歴史がないということは、事実は書かれても、その文書は宮廷の外には出なかったということである。
また王や封建された諸侯は、祖先は神々につながるが、それは口承で伝えられたか、文書になっても宮廷の外には出なかったということである。

ここで周知のことを述べるが、司馬遷は漢の時代の人物である。
そしてもうひとつ有名なことで、漢は高祖劉邦が作った国である。
劉邦は農民出身で、氏素性というものを持たなかった。
神話は、民族、国家のアイデンティティを形成すると共に、王族が神々の血統につながり、神の権威により国を治めるのを正当化する役割がある。
しかし劉邦の劉氏は農民であり、先祖が神であるなどとできるはずもなかった。
つまり中国は、神話が文字で書かれるより前に、歴史が誕生してしまったのである。

「高祖は、沛の豊邑中陽里の人なり。姓は劉氏、字は季。父を太公と曰ひ、母を劉媼と曰ふ」
と『史記』高祖本紀にある。
字があって、諱がない。
諱とは本名であり、字とは通称である。言霊により、人を本名で呼ぶことを忌避するため字を用いる。
劉邦の「邦」は「兄貴」という意味であり、任侠の世界で兄貴として立てられていたのをそのまま諱にしたものである。
父の「太公」、母の媼も「じいさん」「ばあさん」という意味で、字の「季」は末っ子という意味である(劉邦は実際には末子ではない)。
劉邦の長兄は劉伯、次兄を劉仲という。伯は長男、仲は次男の意味である。
母の劉媼が大沢で寝ていて、劉太公が見にいくと、「其(劉媼)の上に蛟竜を見」て、まもなく劉邦が生まれた。
司馬遼太郎は『項羽と劉邦』で「蛟竜とはならず者だったのだろう」とし、劉邦が劉太公の子ではなかったとする。
こういうことは、古代ではよくあることだった。
西洋では名があって姓がない時代が長く続いている。
ハルカリナッソスのヘロドトスホメロスソクラテスなど、これらは姓を持つ意味が希薄だから姓がない、または伝えられていないのである。
古代は女系から男系への過渡期で、父親がわからない子供が多く、そのため男系の血脈による相承を意味する姓が形成されにくかった。古代ローマになって、貴族なら氏族名、家門名、個人名の3つの名前、騎士階級以下は家門名と個人名の、つまり姓名を持つようになった。それだけ男系優位の社会になったということである。
ところが劉邦の劉氏の場合、劉邦が天下を取ってからはそれぞれもっともらしい名前をつけることになったが、元々は姓があって名前がない一族だった。これはヨーロッパに名があって姓がない人々がいるのと同じ理由でこのようになっていたと思われる。つまり姓はあっても、その中に父親がわからない子供がおり、父系社会の形成が表層的なものであるために名をつけずにいたことで、血族の中の心理的疎遠を表したと考えることができる。
そのように考える傍証もある。
呉越同舟」「臥薪嘗胆」の故事で有名な呉王夫差周王朝と同族なので姓は姫だが、夫差を姫夫差と呼ぶことはほとんどない。夫差のライバルの越王勾践に至っては、Wikipediaでは姓を確認できない。
また周王朝自体も血族として正しく男系でつながっていたかというと怪しい。
周王朝創始者は武王で、その父が文王、さらにその父は季歴というが、季歴の兄は長兄が太伯、次兄が虞仲である。ここに劉邦とその兄達と同じ関係、構図を見ることができる。
また劉邦のライバルの項羽の伯父は項伯である。項羽の父や項粱ら兄弟の長兄だったのだろう。
こうして見ると、古代中国で諱をつけずに兄弟順で呼ぶ例は多かったとわかる。

漢の北方遊牧民族匈奴との関係は、伝統的に和蕃公主、つまり皇女を匈奴単于(君主)に嫁がせる政策である。武帝のように匈奴と対決姿勢で望む方が例外である。
これが匈奴からも王族の娘が皇帝に嫁いでくるというなら対等の関係だが、そういうことはなかった。
乱婚制の社会では、敵国に女性を譲るのに抵抗がない。女性は乱婚の対象、つまり男にとって共有に等しいもので、女性の相手が他国の男であっても抵抗がないからである。
そして女性の貞操に対する観念が緩い。
三国時代の魏の初代皇帝曹丕は、父の曹操が死ぬと、翌日には父の側室を全て自分の後宮に入れた。それを見た曹丕の母は、「お前が食べ残したものは鼠だって食べるまい」と言ったという。
また西晋の初代皇帝司馬睿は、司馬睿の母が牛氏と密通して生まれたと言われている。
唐も和蕃公主を行った王朝で、チベットのソンツェン・ガンポの皇后となった文成公主は有名である。
唐の皇室も、3代高宗が父の太宗の側室の武氏を自らの皇后にし、また9代玄宗は、息子の妻を自分の貴妃とした。これが楊貴妃である。
この王朝の性に対する緩さを、元が北方遊牧民の出身だからと見ることもできる。遊牧民は、父が死ぬと子が父の妻を受け継ぐ風習がある。
しかし3代高宗はともかく、9代玄宗まで遊牧民の風習に染まっていただろうか?しかも玄宗は息子の妻を奪ったのである。

後漢の末期に、黄巾の乱を起こした張角太平道と、張陵の五斗米道が融合し、道教が起こる。
この道教の中で、元始天尊などの仙人という。道教の神が生まれていった。

唐の末期から、纏足の風習が始まった。纏足は女性の足に布を巻いて小さな足にする。女性が走って逃げられないようにするためである。

纏足



次の宋の時代から、中国王朝は異民族に対し華夷の別を厳密にし、朱子学が生まれ、和蕃公主のような政策は取らなくなる。中国のナショナリズムが芽生えたのである。
すると、元から明にかけて、斉天大聖孫悟空など、中国では神が充実してきて、また関羽関帝として祀られるなど、新しい神話群が生まれていく。

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