老荘思想は仏教に似ているが、仏教が国、社会、家族を肯定したの゙に対し、老荘思想は根本的にアナーキーである。
というよりも仏教、特に初期仏教が教団を出家と在家に分けたの゙に対し、そういう教団内の区分けを行わずに、仏教徒がそのまま生産活動を行うと老荘思想になる。なぜなら原始仏教が悟りを開くために世俗からも家族からも離れて出家するの゙に対し、老荘思想は「小国寡民」といって、人間が悟りを得やすいように社会の方を規定しようとしたのである。
仏教における悟りと老荘思想では「道」と言い、基本は仏教同様、世の不条理を受け止めて心を穏やかに保つものである。しかしそのために社会の方を規定しようというの゙は、ユートピア思想的でありアナーキーでもある。老子には、
「賢者を尊びさえしなければ、人が争いあわせることもない」
「得がたい財貨に価値を与えなければ、民に盗みをさせることもない」
「欲しくなるかもしれないものも、見なければ心は乱れない」
「常に民には何も知らせず、何も欲させるな」
「何もしないことで、必ず天は治まる」
「偉大な『道』が廃れてはじめて仁義が現れる」
「智慧が取り沙汰される時には大いなる欺瞞がある」
「父、母、伯父、叔父、伯母、伯母の六親の仲が悪い時に限って孝行や慈悲がもてはやされる」
「国家が混乱し(君主の意見に雷同する臣下がはびこっ)ている時に限って、率直に君主を諌める貞臣が認識されるようになる」
とあるから、随分とニヒリズムである。
老荘思想は、広域国家が形成されない時期に始まり、受容された。始皇帝の秦や漢帝国により広域社会が形成されれば、社会から消えていく思想だった。
阮籍、嵆康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎のいわゆる「竹林の七賢」である。
彼ら「竹林の七賢」は皆、三国時代に強勢だった魏と晋の国に生きた人々で、呉や蜀からは現れなかった。その理由は、魏と晋にある問題から「竹林の七賢」は現れたからである。
で述べた、華北の黄土地帯の農業生産力減少による人口減少の問題である。
黄土地帯の農業生産力減少は、森林伐採で腐葉土がなくなった黄土の表土に養分を保たせるには耕作思う続ける必要があり、戦争で農民を兵士として徴発すると、戦争の間に養分のある表土が雨で流れたりして、作物が育たない不毛の地となることに原因があった。
要は戦乱の時代とはいえ、戦争の機会を可能な限り排除しなければ、収穫量が下がり人民が餓死するのである。
だから竹林の七賢は「清談」という、俗世間を離れた清らかな談話をした。欲望を抑え、中国を統一しようという志を抑えることを目的に、彼ら七賢は「清談」をしたのである。
竹林の七賢の問題意識は、意外な方に発展した。
魏と晋は屯田制を施行したが、大土地所有はそのまま認められていた。
晋が滅び五胡十六国時代を過ぎて北魏が華北を統一すると、屯田制は均田制に発展する。
「小国寡民」が転じて、社会主義的な体制に変換するのである。こういう点、ヨーロッパの無政府主義と共産主義の関係に似ている。
黄巾の乱を起こした太平道と、張陵(『三国志』で漢中を支配していた張魯の祖父)が始めた五斗米道が合わさって道教になったが、その際に老子を宗教上の始祖とした。
そしてさすがに「大きな政府」の広域国家が形成されると、老荘思想は流行らずに、道教がもてはやされるようになった。唐王朝は均田制という社会主義的体制でありながら、道教を国教にしているの゙は以上のような背景がある。
そして均田制が崩壊すると、中国の歴代王朝は土地制度においては、社会主義的な試みをすることはなくなった。
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