『ブッダの論理学五つの難問」という本がある。現代の論理学が扱えないものをブッダが扱っており、ブッダが現代論理学を超えていたことを示す良書である。
ブッダはソクラテス、キリスト、孔子と並び、世界の四大聖人と呼ばれる。
聖人とは謙虚なものだが、この点ブッダはふるっている。
「私は一切に打ち勝つもの、私は一切を知る者。私に師はいない。私より尊いものは存在しない」
と言ったのだから、謙虚どころか究極のゴーマニズム宣言である。しかしブッダも「不妄語」(嘘をつかないこと)を唱える仏教徒の一人である。ブッダは嘘を言ったのではない。
「私は一切を知る者」を仏教では一切知という。文字通り全てを知ることができる。そういう悟りの境地の一つである。
一切知といっても、世界の全ての知識がブッダの中にあったのではない。
現代ならば、我々は南アフリカがどうなっているか知ることができる。
ブッダが生きた古代インドでは、南アフリカがどうなっているか知ることはできなかっただろう。しかしそれでもブッダは一才知者だったのである。
「死後の世界はあるのか」などという問いにブッダは答えず、代わりに毒矢の教えを説いた。「この矢はどこからきたのか、誰が射たのかを問う前に、まず矢を抜け」と説いたのである。それが一切知者の態度である。全世界の知識を持っているものの態度ではない。
一切知とは、その時に自らがするべき最適解を得ることである。その最適解を、現代論理学でも及ばない論理でクリティカルシンキングを繰り返すことで得ていく。その一切知を得ればどうなるか。「一切に打ち勝つ」のである。
一切知は、ブッダだけのものではない。西洋にもある。それを体現したのがソクラテスである。ブッダのゴーマニズムは、ソクラテスに言わせれば謙虚になる。どちらの言葉も謙虚さに基づいているからである。
ソクラテスは「無知の知」を説いた。「ソクラテス以上の賢者はいない」というデルフォイの託宣を受けて、ソクラテスはアテネ中の賢者と議論をして、託宣が正しいことの確信を得た。その確信の言葉が「私は知らないことを知っている」なのである。
またソクラテスは、デルフォイの神殿にある「汝自信を知れ」とある碑の言葉を重視していた。
この謙虚以上を示さない言葉が、徹底したクリティカルシンキングを生み出したことを、西洋人は知っていた。だからこそソクラテスは、全ての西洋哲学の源流となったのである。
ブッダは苦行を否定し、出家者は食物は托鉢により手に入れ、食べ残しは捨てる。出家者は生業を持たず、財産も持たない。妻帯もしない。こうすると出家者は、周囲との関係が極小になる。周囲との関係が極小になれば、仏教でいう因果、特に問題となる悪因悪果から自由になる。
それでいて徹底的に論理に基づいて、出家者は教えを説くのである。私はこの、周囲との関係が極小のまま教えを説けることも解脱だと思っている。最も私が最近観ている大愚和尚の動画では、そんなことは言ってはいないが。しかし社会との関係が極小の者のクリティカルシンキングによる提言が強い影響を持っただろうことは想像に難くないだろう。
『ドラゴンボール超』の漫画版で、ベジータが「我儘の極意」を発動する。悟空の「身勝手の極意」を「俺向きじゃない」と言って、ベジータはウイスでなくビルスに破壊の技を教わり、戦いの中で「我儘の極意」に覚醒する。
しかしベジータの「我儘の極意」は、悟空の「身勝手の極意」とそんなに違うものではない。厳密に言えば、「身勝手の極意」は禅宗の影響を受けた東洋武術の悟りの境地である。
しかし武術の悟りの境地は、攻撃力を無限に高めたりはしない。だから「我儘の極意」は、一切知による「一切に打ち勝つ者」を表している。「銀河パトロール囚人編」から「宇宙一の戦士編」まで、ベジータたちサイヤ人の罪が一つのテーマになっている。
ビルスは罪の意識を抱えるベジータを一笑に付す。「自分の罪ならまだしも、サイヤ人が犯した罪まで一人で背負うつもりか?思い上がるのもいい加減にしろ」そして「宇宙一の戦士編」で、悟空の父バーダックの戦闘の音声記録により、悟空とベジータはサイヤ人としての誇りを持つことに気づく。
今取り組むあらゆる問題に、過去の罪の意識を持ち込むことは無意味なのである。むしろ過去に囚われず、今自分の取り組むべきことに全てを集中することが「一切に打ち勝つ」ことにつながる。そしてこれからは、「罪の意識を持つ者」が戦う時代であることを、鳥山は示したのである。
ユーラシア大陸の西は、「何が善か」を追求する世界として歴史は動いてきた。ユーラシア大陸の東は、必ずしも何が善かを明確に求めては来なかった。
世界を最も大きく変えるのは戦争というのは揺るぎない真実だが、この真実は西洋において最も顕著だった。
その理由は、多くの人が正しさを手段を選ばず、時に戦争という手段に訴えてきたからである。戦争は主に、十字軍などの宗教戦争という形で表れてきた。ドイツの三十年戦争では、ペストによる病死と合わせて、ドイツの人口の3分の1が犠牲になった。
宗教戦争でなくても、異端審問や魔女狩りなどで、多くの人が犠牲になった。
今の西洋が幸福な社会に見えるなら、それは多くの正しさを求めた人の無念の屍と、それに対する反省の上に築かれた社会だということである。
仏教では、正しさの追求に固執することを囚われという。仏教は人がその時その時に最善の生き方をすることを目的とするのであって、社会変革を第一とするのではない。
そのブッダの教えも、日本にはブッダの教えは直接には入っていない。代わりに日本には、19世紀に西洋の思想が導入され、近代国家としての道を歩んできた。
ウクライナ情勢で左派がロシアに積極的に加担する発言をしたり、未だにマスクを外せないような世の中で、この国の民主主義がどこまで守られるのか、不安になることもある。しかし明治以降、150年間西洋型の近代国家として培った歴史が、この国を支えていくだろう。
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