坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

現代社会で非正規の労働運動が起こらない理由

農民や奴隷の反乱は、東洋では紀元前209年の陳勝呉広の乱、西洋では紀元前135年のシチリアでの奴隷戦争である。人類には4000年以上の歴史があるが、この2つの反乱以前に農民や奴隷の反乱はなかったのである。

歴史時代の初めの頃は、国家は都市や農村、あるいは小さな部族単位で形成されていた。

この小さな国家では、善悪が問われることはなかった。神話は世界が不条理であることを教えるものであり、不条理である代わりに完成された人間、仏教でいうところの悟りを開く人間が存在することを教えた。人間が悟りを開けることについて、神話は嘘は言わなかった。

その国家がアッシリアに始まる世界帝国によって統合され、やがてアケメネス朝ペルシアの時代にゾロアスターが現れゾロアスター教を創始する。

ゾロアスター教善悪二元論で、この世には善と悪があることを人々に教えた。ゾロアスター教以来、マニ教ミトラ教キリスト教グノーシス主義など、二元論の宗教が盛んになっていく。

二元論とは別に、世界には2つの潮流があった。4大聖人と一神教の流れである。

4大聖人は、孔子の「怪力乱神を語らず」、ソクラテスの「無知の知」「汝自身を知れ」、ブッダの八正道など、それまで不条理の中で突然変異のように表れていた悟りを開く者が、知性によってより容易に悟りに到れる道を説いた。またそのことがより道徳的に人間が生きられるようになることでもあった。

モーセユダヤ教に始まる一神教は、十戎の「汝殺すなかれ」「汝姦淫するなかれ」といった道徳を、神の教えとして強要する。しかし「汝偽証するなかれ」などは、多くの人間にとって守れるものではなかった。多くの人間には実践できないが、ユダヤ教はそれを明らかにすることによって、道徳とは何かを明確にした。

ゾロアスター教に始まる二元論は、善とは何かを必ずしも明確にしていない。4大聖人や一神教は、二元論に対し道徳とは何かをより明確にしていった。

一方、東洋では天人相関説のように、古い王朝が倒れる時は「王朝に徳がなかった」とし、新しい王朝に徳があったとして善悪の基準とした。

 

日本における最初の農民の反乱は室町時代、1428年の正長の土一揆である。

世界帝国の出現が農民や奴隷の反乱に繋がったのは今まで見た通りである。しかし室町時代の日本は世界帝国ではなかった。ならばなぜ農民の反乱が起こったのか?

世界帝国の出現は、実は農民、奴隷の反乱の絶対要件ではない。

重要なのは、規範の確立なのである。世界帝国によって世界が開けることで、農村、都市国家と圧倒的に違う情報量が農民、奴隷を反乱の赴かせるのではない。世界帝国によって広く規範が共有されたことが重要なのである。その規範は、農村、都市国家単位では教えなかった善悪の存在を教えた二元論と、4大聖人、一神教によって規範が醸成されたのである。

紀元前135年のシチリアでの奴隷戦争は、ローマがポエニ戦争に勝利して、地中海を内海とする世界帝国となった。ローマは法律を帝国内に普及させ、ローマ法が後のヨーロッパの法律の起源となった。

陳勝呉広の乱始皇帝によって中国が統一され、身分制度は廃止され、皇帝のみが貴しとなった。始皇帝の秦も法家思想により、全国に法律を敷いた。それが規範となったのである。

日本では、鎌倉新仏教や御成敗式目などが規範を醸成していった。しかしそれなら、鎌倉時代に農民一揆が起こってもいいはずである。

農民、奴隷の反乱にはもうひとつ条件がある。それは権力、権威の衰退である。

ポエニ戦争に勝利したローマは、征服した属州の権利を認めず、属州民は搾取の対象となった。またローマでも、農民は長い兵役に耐えることができず、土地を売って無産市民となった。マリウスの改革により無産市民が兵士となることで、無産市民の増加は一応の解決を見たが、今度は兵士が政治家の私兵となり、ローマ市民同士で血で血を洗う戦いが繰り広げられた。この混乱は、ユリウス・カエサルが帝政の道を開くまで続くことになる。

始皇帝の秦も、急激な改革が仇となり、始皇帝の死が国家の崩壊に直結した。

正長の土一揆も、足利義満の将軍権力の強化の努力が失敗し、足利義持から足利義教に移行するという、権力が不安定な時期に起こった。

 

日本でもし暴力に依らず、非正規で権利獲得運動ができないのなら、それはグローバルで大量な情報が規範を確立させていないからである。

最近リベラルが叩かれているが、リベラルが本気でリベラルな社会の確立を目指していたなら、こうは叩かれなかっただろう。リベラルを一部の者達のために利用していただけなら、リベラルが規範になるはずもない。

現在、5Gとかメタバースなどが流行しているが、この流行は私の子供の頃のコアラやラッコやエリマキトカゲが流行したのと同じに見える。

もちろん、5Gやメタバースには有用性がある。しかしこのようなテクノロジーの発達による流行は、いくらテクノロジーが進歩しても規範を作らない。

リベラルアーツが必要なのは、テクノロジーの進歩に流されない自分を作るためである。周囲の風潮に流されない自分を持った人間が複数集まることで社会に影響を与え、規範が生まれる。

 

最後に、キリスト教のことを挙げよう。

『クオ・ヴァディス』で表されたように、皇帝ネロの迫害を逃れてローマを逃げ出したべテロの前にイエスが現れる、

「クオ・ヴァディス(あなたはどこへ行くのか」とペテロはイエスに尋ねると、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はもう一度十字架にかかろう」とイエスは答える。

エスの言葉を聞いたペテロはローマへと戻り、磔になる。ペテロの墓の上に教会が建ち、カトリックが成立する。

カトリックでは以後、殉教の精神を尊ぶようになる。

何かを変えようとする者は、は、その何かに命をかける必要がある。その命をかけた者によって、歴史は変わっていくのである。

 

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