坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

何もできないという時の苦悩

中国最初の人口大減少の時代を生きた曹操 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で書いたこの三国時代というのは、ただでさえ人が生きるのに大変な時代だった。

曹操は詩人として知られている。

しかし中国では、表意文字としての漢字だけが文字とされ、表音文字が生まれなかった。

漢字を使いこなすには、数千もある漢字を覚えなければならず、そのようなことは庶民には不可能で、庶民は一生文盲のままだっただろう。また漢字を使いこなせることは、士大夫の誇りであり、士大夫は人民を教化しようとは考えもしなかっただろう。つまり詩でさえも士大夫の娯楽だったのである。

しかも中国では、孔子が「怪力乱神を語らず」と言った。そのため中国では、ファンタジーが生まれなかった。

ファンタジー要素がなくてもフィクションもダメで、つまり小説が生まれない環境だった。

中国にフィクションが生まれるのは、唐による国際文化が花開いたことによる。唐の時代に、『アラビアンナイト』や『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』が流入し、中国人は長いフィクションを書いてもいいということに気づいたをだろう。

問題は漢文は庶民にはチンプンカンプンなことだが、中国人は表音文字を開発する代わりに、口語で漢文を書くことを思いついた。これが白話で、国際色豊かな唐の時代を経て、宋の時代から白話文学が作られるようになる。そして『西遊記』『三国志演義』『水滸伝』『金瓶梅』といった「四大奇書」が生まれる。

曹操が生きた三国時代には、白話も「四大奇書」もない。

人々は何を楽しみに生きたかといえば、村ごとに祭りや神話を聞くのを楽しみにしていたのである。

だから人口減少時代に入ると、その楽しみもなくなる。

人々が戦争から帰ってみると、農地は不毛の地になり、人々は土地を離れて流浪する。

流浪する中で、多くの人が飢えて死んだだろう。

人々は流浪の中でも、神を祀っただろう。しかし神は土地と共にあると信じていた時代である。人々は神が共にあると信じることができただろうか?

流浪の旅は相当に辛かったのだろう。そのことを示すのが客家という人々である。

客家は、中国の中原と言われる地域の人々戦乱で故郷に離れて、長江以南に移った人々である。

客家は中国のユダヤ人と呼ばれ、古代中国の言語を今に伝える客家語を話し、教育レベルが高く、軍人や革命家になることが多い。また祖先信仰が強く、古代からの系譜を今に伝え、古くからの風習を頑なに守っている。宗族のアイデンティティを守ることの頑なさは、まさにユダヤ人のようである。

 

鴻雁出塞北

乃在無人

挙翅萬餘里

行止自成行

冬節食南稲

春日復北翔

田中有轉蓬

随風遠飄揚

長與故根絶

萬歳不相當

奈何此征夫

安得去四方

戎馬不解鞍

鎧甲不離傍

冉冉老将至

何時反故郷

神龍藏深泉

猛獣歩高岡

狐死歸首丘

 

故郷安可忘鴻雁 塞北を出でて

乃ち無人郷に在り

翅を挙げて万余里

行きて止まり 自ら行を成む

冬節 南稲を食み

春日 復た北に翔ぶ

田中 転蓬有り

風に随ひて遠く飄揚す

長く故き根より絶り

万歳 相当たらず

此の征夫を奈何せん

安くにか四方に去り得ん

戎馬 鞍を解けず

鎧甲 傍を離せず

冉冉老い将に至るべし

何れの時ぞ故郷に反らん

神龍 深き泉に藏み

猛獣 高き岡を歩む

狐死するとき帰らんとして丘に首う

故郷安くんぞ忘れ可けん

 

[解釈]

渡り鳥は塞北を出て

つまりは無人の郷にあって

羽を伸ばすと一万余里を

行くも止まるも本能のまま

冬には南の稲をついばみ

春にはまた北へ翔んでいく

 

田畑の中には蓬が転がり

風にしたがい遠く舞い上がる

長いあいだ根よりへだたり

一万年たっても巡り会わない

 

この出征者たちをどうしよう

どうしても自由に去ることはできない

馬から鞍を解くことはできず

鎧かぶとはそばを離せない

そのうち老いが迫ってくるのだ

いつの日に故郷へ帰れるだろうか

 

神竜は深い泉にひそみ

猛虎は高い岡を歩む

キツネは丘にこうべを向けて死ぬ

故郷を----どうして忘れることができよう

 

「却東西門行」という曹操の詩で、故郷を離れて戦う兵士の心を詠んだ詩だが、この詩はそのまま、客家の心境に当てはめることもできるだろう。

曹操の詩は、悲しみや愁いを詠んだものが多く、この詩のように、兵士の立場に立って詠んだ詩もある。

農地が減り過ぎて戦争ができなくなった曹操は、せめて泰平を謡いたかっただろう。戦争をしないことで、泰平の気持ちを民と共有したかっただろう。しかし詩は庶民のものではない。

曹操の詩で、広く人材を求める有名な詩があるが、曹操は人々が次々と死んでいく世界で、悲鳴を挙げるように、人民の救済策を求めたのかもしれない。

しかし士大夫は、黄土高原の特殊な土壌の問題など気にかけないのである。そういうことを気にするように教育されていない。問題は漢王朝の腐敗と衰退にあり、曹操が帝位につけば解決すると思っている。

そして曹操は、帝位につくことができない。曹操が帝位につけば、漢中王となった劉備が漢朝再興をスローガンにして攻めてくる。そうなれば戦争になり、また農地が失われる。だから曹操は自分を「周の文王だ」と言ったのである。

自分を文王になぞらえたのは、特別な意味がある。

文王というのは諡で、姓名は姫昌、生前は西伯侯と呼ばれ、殷の紂王の臣下だった。

姫昌は讒言によって羑里に幽閉される。幽閉中、紂王は人質にしていた姫昌の町なの伯邑考を煮殺して、羹(スープ)にして姫昌に飲ませた。

姫昌は解放された後も紂王に忠を尽くし、紂王に見切りをつけた諸侯が姫昌を慕うようになったが、姫昌はその諸侯達を連れて紂王に降伏した。

文王は、帝位簒奪を企図して皇帝をないがしろにした曹操とは違うのである。ここに曹操の苦衷を読むことができる。

曹操は、魏を簒奪した晋の祖司馬懿と共に悪人と言われた。

日本の吉田松陰ですら、「曹操司馬懿、智術を揮ひて一時を籠絡すと云へども、天下後世誰か其の心を信ずる者あらん。名づけて姦雄と称し、永く乱臣賊子の亀鑑とす」と曹操を酷評している。しかし曹操が帝位を簒奪していたらどうか?

恐らく、ここまで悪くは言われなかっただろう。

ここに、時代の限界と、その時代に生きたものの苦悩を見ることができる。

曹操が戦争で農地が減り、人口の減少の心配をしている時に、同時代の人々は、漢朝に忠であるかを最大の評価基準としていたのである。

 

もし曹操が、唐の国際色豊かな文化の後に白話文学が流行したように、新しい文化を築こうと思ったなら、帝位を簒奪すべきだっただろう。可能性はそんなに高くないが、皇帝となって新しい時代の方向性を示せば、人々がその方向に動くことがある。

もっとも曹操には、白話文学を作るような発想はなかっただろう。

しかし「もし」を考えてみよう。曹操にそ白話文学を作る発想があったとしたら?

それがも、魏王では新しい文化を築くことができない。

もし白話文学を作るとしたら、それは士大夫の文化への挑戦になる。古い権力に遠慮するようでは、新しい文化を゙作るエネルギーは生まれない。曹操は新しい文化を作るためには、皇帝にならなければならなかったのである。

曹操にできることは、庶民に届かないと思いつつ詩を詠むことと、『孫子』の注をつけることと、人の意見を聞くことだった。人の意見を聞いても、農地を回復する方法についてはほとんど良案を得られなかっただろうが、何十人もの意見を聞けば、何かしら光る意見を持つ者が現れる。曹操が人材を重用し、人の意見を良く聞いたのはそういうところにあるのかもしれない。

 

時代を動かすには、時代を動かすだけの条件が整わなければならない。

中国の三国時代というのは、そういう人が生きる活路を求めるという点において、全ての条件が中途半端な時代だった。そしてそういう時代には、曹操ほどの能力をもってしてもできることがほとんどなかったのである。

そういう時代に巡り合わせる人がいることを、我々は知るべきだろう。

 

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