奈良時代までの政争とは、血で地を洗うものだった。
長屋王、藤原広嗣、橘奈良麻呂、淳仁天皇、藤原仲麻呂、氷上川継、井上内親王など、多くの者が政争に敗れ、また乱を起こした。
これらの乱は、長屋王の変に見るように、一族が皆殺しにされるなど、残虐な処分が多かった。
また称徳天皇のように、明らかに変死をした人物もいる。
称徳天皇は女帝で、道鏡を天皇にしようとしたことで有名だが、称徳天皇は死の淵にいる際に、側に女官以外は近づくことができず、お気に入りの道鏡さえ女帝の側に寄れなかった。つまり見殺しにされたのである。
称徳天皇は埋葬にも疑問があり、称徳天皇陵というのは前方後円墳である。古墳時代が終わった奈良時代に前方後円墳はありえない。
古墳時代の天皇陵比定は正しくないのがほとんどだが、『古事記』『日本書紀』が書かれて、陵墓についてこんな扱いを受けているのは称徳天皇のみである。つまり称徳天皇は正しく葬られていない。
中国でも、伍子胥が仇の死体に鞭打ったように、正しさを追求するということは、突き詰めれば相手を人間扱いしないということである。
聖徳太子の等身像とされる法隆寺夢殿の救世観音像が、その光背が釘で観音像の後頭部に打ち付けられていることなどもそのことを表している。救世観音像は秘仏とされ、明治時代に岡倉天心とフェノロサが開帳するまで、人の目に触れることはなかった。
長屋王についても面白い話がある。
『日本霊異記』に、聖武太上天皇が長屋親王に勅して、衆僧に食事を与える役に任じた。しかしある沙弥(僧)が無作法にも鉢を捧げて食事をもらおうとしたので、長屋親王はその沙弥の頭を象牙の笏で打ち、沙弥の頭から血が出て、沙弥は恨めしそうな顔でその場を立ち去った。その場にいた僧俗は「不吉だ、良いことはない」と囁きあった。
その2日後、「長屋親王は社稷を傾けることを謀り、皇位を狙おうとしている」と誣告する者があり、天皇が軍兵を派遣した。
長屋親王は子や孫に毒を飲ませ、自らも毒を仰いで死んだ。
天皇は都の外で長屋親王の遺骸を焼き砕いて、河に散らし、海に流した。しかし親王の骨は土佐国に流したが、その後土佐国で多くの人が死んだ。
そこで天皇は、長屋親王の遺骨を都に近い、紀伊国の海部郡の椒枡(はじかみ)の奥の島(有田市の沖の島)に置くことにした。
まず、この話自体がフィクションである。というより、長屋王の変死に仮託してスピンオフしている。
というのは、「聖武太上天皇」とあるが、長屋王の変の時、聖武天皇はまだ譲位していないのである。
聖武天皇の生前に書かれたものなら、「聖武太上天皇」と呼ぶこともあるが、『日本霊異記』は822年成立説が有力である。『日本霊異記』の著者が聖武天皇の時代に生きていて、その時代のことを思い出して書いたなら「聖武太上天皇」もあり得るが、著者の奈良薬師寺の僧景戒は生没年不詳である。
ちなみに聖武天皇の没年は756年。時代は聖武太上天皇の時代だが、長屋親王を処罰したのは「天皇」である。その時代の天皇といえば孝謙天皇(後に称徳天皇として重祚)だが、孝謙天皇が長屋王の変の729年に天皇であるはずがない。完全な作り話である。
その代わり別の、重要なことを伝えている。それは長屋王が長屋親王だったということである。長屋王の変について述べた『続日本紀』は、長屋王を親王から王に格下げしているのである。
長屋王が親王だったことは、長屋王邸宅跡から「長屋親王」と書かれた木簡が発見されたことで明らかである。また『続日本紀』には長屋王は左大臣だったと書かれているが、『日本霊異記』には長屋親王は太政大臣だったと書かれている。太政大臣だった方が真実だろう。
『日本霊異記』は長屋親王が罰せられたことについて、長屋親王の行為に問題があったとしているが、察するに無実の罪だろう。
なお、『日本霊異記』の著者景戒はその著作で、「延暦6年(787年)には僧の身でありながら妻子を持ち養う金がなかった」と述べ、延暦14年(795年)には伝灯住位の僧位に進んでいるとある。聖武「太上天皇」の時代に生きていたかは微妙なところである。
『日本霊異記』の話ですっかり長くなってしまった。
桓武天皇の代になって、その政争は様変わりしていく。
造長岡宮使の藤原種継が暗殺されると、その嫌疑が皇太弟の早良親王にかかり、早良親王は淡路に流されるが、早良親王は食を絶って憤死する。
すると旱魃が起こり疫病が流行し、長岡京で洪水が起こり、桓武天皇の生母の高野新笠や桓武の妃が三人も病死する。これが憤死した早良親王の祟りと出て、桓武は早良親王に崇道天皇と諡する。
桓武天皇の事業として蝦夷征伐があるが、征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷の族長阿弖流為と母禮が王化に服し、二人を都に連れ帰ると、桓武天皇は二人を奥地の賊首であることを理由に首を切った。蝦夷の族長だから、適当な理由で首を切っただろう。
この後薬子の変があるが、この変で藤原薬子や兄の仲成が射殺されたのを最後に、国家による死刑が行われなくなる。
この藤原仲成の射殺というのも変な話で、養老律令には「斬・絞」の刑罰があり、射殺はない。しかも仲成は佐渡権守に左遷という処分を受けている。その上で刑罰を受けているのであり、この射殺を「私刑」と解釈する学者もおり、私もその一人である。
加えて仲成の罪状だが、「藤原薬子を教正しなかったこと」と「伊予親王とその母を凌侮した罪」となっている。俗に「伊予親王の変」と言われているもので、伊予親王の変は807年に起こっている。薬子の変が起こった810年とも違う。
ちなみに892年に菅原道真が編纂した『類聚国史』には、仲成が伊予親王を唆したと書かれているが、841年に完成した『日本後紀』にはない。もっとも『日本後紀』は多くが散逸している文献ではある。
とにかく、薬子の変は平城上皇が朝廷の実権を握ろうとして平城京への還都を謀ろうとして起こった事件だから、仲成が伊予親王の変に関与していたとは考えにくい。なお追い出し伊予親王の変は伊予親王が謀反の罪で幽閉され、飲食を止められた上毒を仰いで自殺した事件だが、823年に無実を認められた復位している。
以上を考えると、仲成は薬子の変に関与していた可能性は高く、そのくせ変の処分を正しく行わず、無実の罪を着せられた伊予親王を唆したという濡れ衣を着せられた可能性は一番高いと考えられる。
他に政争に敗れた人物として、嵯峨天皇の妃の高津内親王がいる。
高津内親王は桓武天皇の第12皇女で、嵯峨天皇とは異母兄妹になる。
高津内親王の皇子は業良親王といったが、精神に問題があったらしい。
しかし、皇子に問題があるからといって、生母が処分されるということはないし、精神に問題があった天皇というのは、他にも陽成天皇や冷泉天皇などがいる。
高津内親王は、「良有以也(まことにゆえあるなり)」という、よくわからない理由で妃を廃されている。おかげで檀林皇后と呼ばれる橘嘉智子が皇后になる。
「直き木に 曲がれる枝の あるものを 毛を吹き疵を 言うがわりなさ」
という歌を、高津内親王は残している。高津内親王は誹謗中傷によって妃を廃されたのである。現代日本なら辞意という形式を取るところだが、この時代、そういう形式が発達していないのだろう。そして廃妃に追い込まれるにあたり、子の業良親王のことを相当悪く言われたと思われる。
淳和天皇の皇太子恒貞親王が廃された承和の変もまた、曖昧な事件である。
恒貞親王は嵯峨天皇の皇女の正子内親王を妃としており、嵯峨天皇の意向で、嵯峨天皇の子の仁明天皇の皇太子となった。
その恒貞親王が、淳和天皇が崩御すると窮地に立つ。仁明天皇には藤原良房の妹順子が入内し、道康親王(後の文徳天皇)を生んでいた。自分の孫を皇太子にしたい皇太后の橘嘉智子が密かに良房と連携していた。
伴健岑と橘逸勢が恒貞親王を救おうと、親王を東国に移動させようと画策したが、逆に「親王が東国に下向して謀反を起こそうとしている」と誣告された。
嵯峨天皇が崩御すると健岑や逸勢が逮捕され、恒貞親王は事件と無関係とされながらも責任を取らされ、皇太子を廃された。
応天門が燃えたことを、大納言伴善男は左大臣源信の仕業であると告発するが、逆に善男の仕業と断罪され善男は流罪になる。
善人か悪人か、平安中期が屹立する、出世のためなら手段を選ばないこの怪人物のため、後世の我々から見ても真相は見えづらいが、私はやはり善男が放火したと思う。真犯人が善男だとすると、珍しく真っ当な理由で断罪した事件である。
安和の変が、今まで述べた中で一番曖昧な事件である。
源満仲が橘繁延と源連が謀反を計画していると誣告し、その類が左大臣源高明に及ぶのだが、左大臣が謀反に加担すれば普通は主犯だろう。それが高明は事件への関与は曖昧なまま、高明は太宰権帥に左遷された。
しかも高明は、変の2年後に許されて帰京している。謀反の主犯が帰京を許されるなどあり得ることでなく、実態はただの左遷人事にすぎないことを安和の変は物語っている。
平安時代の政争は、真実謀反があった場合は別の冤罪で不当な手続きによって死刑にされたが、無実の罪の場合、曖昧な理由で事件と関与つけられて有罪、または無罪でも責任を取らされる。
例外は伴善男で、何しろ善男は少壮の頃、上司5人を失脚させた経歴の持ち主なのである。あまりに善男の個性が強烈すぎて、朝廷としても善男を正当な手続きで罰せざるを得なかったらしい。
そして、薬子の変から保元の乱までの346年間、日本では死刑が実施されなかったのである。
保元の乱から武士の時代になり、平治の乱で平清盛は源義朝の遺児を助命する。
すると助命された源頼朝が平氏を滅ぼす。そのため「義朝の遺児を助けたから平氏は滅びた」と言われ、武士はこの先例の通り、善悪より敵の血を絶やさないことを恐れた。
「敵の一族は子供まで殺す」という武士の原則は武士の時代全般を通じ、大抵は実行された。大坂の陣の家康のように、自分がどう見られるかも気にしない言いがかりで豊臣家を滅ぼしたように。
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