坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

律令破壊の思想的支柱となった空海

桓武天皇が都を平安京に移した時期に、空海は生きた。

またこの時期は、天武天皇の系統から天智天皇の系統に移行した時期でもあった。

桓武は交野(大坂府枚方市)で交祠という、天地と皇祖を祀る儀式を行った。皇祖とは天智天皇のことである。王朝交替を意識した儀式だった。

天武天皇の系統の奈良時代というのは、大陸の唐の律令制を本気で実施しようとしていた時期でもあった。

しかし律令制というのは、日本の実情には合わなかったようで、律令国家としての体制を緩めようという動きが、天智系の光仁天皇、そしてその子の桓武天皇の政権を樹立させたようである。

しかしそのせいだろうか、桓武平安京を造成するという、また蝦夷を平定するという壮大な事業をしながら、桓武にはどこか弱さがあった。平安京の前に長岡京を建設しようとし、それが水害などでうまく進まず、造長岡宮使の藤原種継が暗殺されると、桓武天皇長岡京を捨て、平安京の建設を始めた。壮大な意志力と、それを中途で捨てる意志の弱さが同居していた。

藤原種継暗殺に関与した疑いで皇太弟の早良親王が廃され、早良親王淡路国に配される途中、絶食して死んだ。

すると桓武の妃の藤原旅子、藤原乙牟漏、坂上又子、そして桓武生母の高野新笠の病死、疫病や洪水が相次いだ。その全てが早良親王の怨霊によるものとされた。

桓武は淡路の早良親王の陵墓に陳謝の使を送った。

時の朝廷が怨霊の存在を認めたのも初めてのことだった。

奈良時代には怨霊の祟りだと思っても、朝廷はそれを認めなかった。認めれば朝廷に非があることになるからである。非を認めない、自らを是とする点で、律令国家の確立を目指した天武系の天皇達は、どこか日本人とは違うものを目指していた。平安朝の天皇達が、怨霊となった菅原道真に対するように、祟られれば自らの非を認める弱々しさを、桓武の頃から持っていた。

 

空海は、そういう時代の空気をどれだけ読んでいただろうか。

空海は人心の操作が相当にうまかったようなので、時代の空気は読めていただろう。そして空海はその風潮の中で、真言密教を確立した。

真言密教の特徴は加持祈祷、そして人間の欲望を全肯定したまま即身成仏できるという点にあった。もっとも色欲については、僧はその華麗な密教世界に心境を溶け込ませることで解消できるという、不思議な思想となっている。

日本に仏教が渡来しても、奈良時代までは仏教の思考法を伝えているのみで、当時の日本人の多くは、解脱を理解していたかどうかも非常に怪しかった。また仏教について、多くの者が無知だった。

その仏教ですらも、ブッダの唱えた仏教ではない。

ブッダソクラテス孔子、キリストという世界の4大聖人に共通するのは、隣人を選ばないことであった。相手が嫌いでも付き合いの対象から簡単に外したりはしない。それが単純に共同体理論になるのではなく、あくまで個人の救済を前提にして、その上で共同体に貢献するのが特徴であった。

歴史は、日本には4大聖人の教えが直接には入っていなかったし、入っても浸透しなかったことを教えている。

そして仏教が何なのかもよくわかっていない日本において、また律令制度に背を向け始めた日本において、空海は欲望を全肯定したのである。

空海は入唐する以前に、密教とはどういうものかほとんどわかっていたという天才であり、日本人はその空海を崇敬する心が非常に篤く、大師といえば空海一人を指すというほどの人物となった。

その空海の天才ぶりを示す伝説が数多く作られた。三筆の一人(他二人は嵯峨天皇橘逸勢

とされ、五筆和尚といって、手足と口で書を書けたとか、揮毫した書に点を忘れて、筆を投げて点を入れたなどという物語が数多く作られた。また高野山では、空海は今も生き続けているという。

空海のライバルといっていい最澄は、生きている間は空海に徹底的に負け続けた。桓武天皇に見出されて空海よりも注目されていた最澄は、空海を後を負い続け、一生追いつけないという後半生を送った。

しかし空海への信仰(真言宗より空海自体への)は、律令制度に背を向けた日本人の欲望を全肯定したことにあるのであろう。

そしてまさに空海以後、日本は律令制度をずたずたに引き裂いていくのである。律令制度の解体を、空海が思想的に推し進めたといっていい。

そして律令制度の解体が進むと、空海の思想の対極にあるような浄土教が流行し、鎌倉新仏教の一角として、空海真言宗を超えてしまうのである。また鎌倉新仏教は、生前空海に負け続けた最澄比叡山で学んだ僧達が宗祖となった。

この現象を、空海が天才でありすぎたためにその後の弟子が育たず、最澄が自らの教学を未完成なまま生を終えたために、弟子が教学の完成のため、励んだからだという風に説明される。

しかし、それだけではないだろう。

律令制という正しさに背を向けた日本人の持つ後ろめたさに、単に欲望の肯定しかしない真言密教は限界を迎えたのである。その後ろめたさに答えたのが、鎌倉新仏教だった。鎌倉新仏教の前に、真言宗はもう後塵を拝するしかなかった。

そしてこの空海に対する最澄の逆転勝利、鎌倉新仏教の台頭に目を背けたまま、大師信仰だけが生き続けた。

 

 

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