坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

閻魔大王の裁きの補佐をした小野篁

小野篁という人物は、仁明天皇の時代に遣唐副使となった。遣唐使の中でも遣唐大使の次に偉い。

2回渡航に失政して、3回目に遣唐大使の船が漏水したために、遣唐大使が篁の乗る第2船に乗っていくことになった。篁は、

「己の利得のために他人に損害を与えるようなやり方がまかり通るなら、面目なくて部下を率いることなどできないと言って船を降りた。そして「西道謡」という、遣唐使を風刺する詩を詠んだが、この詩には本来忌むべき表現を多用していたため、嵯峨天皇の逆鱗に触れて隠岐国流罪になった。隠岐国に向かう道中で詠んだ「謫行吟」という詩は、詩に通じる者で吟じない者はないほど優れた詩だったという。嵯峨天皇は後に篁を許して帰京させ、官位を元に戻している。

 

宇治拾遺物語』にある話で、嵯峨天皇のある時、無悪善と書かれた落書きを見つけた。天皇は篁に、「これを読め」と言ったが、篁は応じない。

そこで天皇がさらに読むように強要すると、「悪さが(嵯峨)無くば善けん」と読んだ。つまり「嵯峨天皇がいなくなればいいのに」ということである。

嵯峨天皇はこの落書きは篁が書いたと思って問い詰めたが、「自分が書いてなくても、どんな文でも読める」と篁は答えた。

そこで天皇は、「『子子子子子子子子子子子子』を読んでみよ」と言うと、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と篁は読んだ。嵯峨天皇はそれ以上、篁を追求できなかった。

平安初期には、嵯峨天皇を中心にした宮廷サロンが形成されていて、「五筆和尚」と呼ばれた空海の伝説もあるが、なんといっても篁の伝説が多い。

今昔物語集』には、篁は昼は朝廷で官吏を務め、夜は閻魔大王の裁きと補佐をしていたという。藤原高藤藤原良相は一度死んで、篁が閻魔大王にとりなしたおかげで生き返ったという。六道珍皇寺に井戸があり、篁はその井戸を通って冥界との間を行き来していたという。

確かに篁は「令義解」という律令の解説書の編纂に関わっており、明法道(法律)にも通じていた。

 

ならばなぜ、篁の時代、律令制は解体の方向に向かっていったのか?という疑問がある。

篁が閻魔大王にととりなして蘇生させた藤原高藤藤原良相というのは、まず藤原良相は、藤原良房の弟、藤原高藤は良房の甥である。つまり藤原氏の片棒を担いだと『今昔物語集』は言っているのだろう。

 

ここで、伴善男に触れない訳に触れないいかないだろう。

まず、法隆寺の善愷という僧が、法隆寺の保護者である登美直名が寺の財物を私物化していると告訴したことに始まる。当時の太政官弁官局の弁官のうち5人が審理して、直名を遠流に処した。

ところが当時右少弁だった伴善男は、

「善愷が一時的に俗形を取らずに提訴したのは僧尼令違反である」

「善愷が提訴した時に一時的に拘束したのは不当である」

「審理の際、弁官が直名を『奸賊之臣』『貪戻の子』と罵倒したのは不適切であること」

「訴状を僧綱・治部省を経由せずに直接弁官が受理したのは手続違反である」

「訴状は直名が行為を行ったとされる日時の記載がないのは闘松律(告人罪状)違反である」

として、判決無効と弁官の違法行為を弾劾した。しかし弁官が直接訴状を受理するのは当時の風潮で、僧尼令こと当該条文も実際には行われていなかった。善男の主張は急激な律令回帰を求めるものだった。

そして善男は公罪でなく、より重い私罪にするように主張し、5人の弁官を解任するのに成功した。

小野篁は、この時全面的に善男に賛同した。

そして応天門の変だが、善男は左大臣源信が応天門放火の犯人だと主張した。しかし後に、善男の従者の生江恒山に娘を殺された大宅鷹取が、放火の犯人は善男と、その息子の伴中庸だと訴えた。

審議が進まずに数ヶ月が過ぎたが、8月18日に、陰陽寮から「応天門の火災は山陵が穢されたことの譴責である」との申し出があり、調べてみると山陵の木々が伐採された跡が見つかったため、朝廷は陵守の処分を決定した。つまり放火ではなかったがいうのである。

しかし、翌19日、藤原良房が人臣初の摂政となった。

当時左大臣源信は籠居し、右大臣藤原良相も病気で出仕が滞っていた。善男の処分を判断できるのは大臣職だけで、太政大臣である良房には権限がないが、摂政となった良房にはその権限があることになる。

そして善男は有罪になった。

 

応天門の変は、左大臣であった源信が最初放火の犯人とされ、信が消えれば藤原氏にとって都合が良いと誰もが思うところを、一転して犯人を名指しした善男が放火犯とされ、良房に嫌疑がかからない形で終始している。そしてこの過程で摂関政治が始まっている。一番得をしたのは良房である。

だから出世欲の強い善男を良房が焚き付けて、善男に応天門を放火させ、信の追い落としをすると思ったところで善男が裏切られたと考えると筋が通る。

 

小野篁は、応天門の変の時には既にこの世にいなかった。しかし善愷訴訟事件の時には、善男に賛同したことは「あれは誤りであった」と後に語っている。

小野篁は、才気があるが、重要なところで挫けるという、知識人によくいるタイプである。

官僚ならば実務を誇るべきだが、平安貴族は実務は疎かにして知識と教養を誇りにするようになっていく。そしてそのために、政治の実権を武士に奪われる。

後に徳川家康禁中並公家諸法度を制定した時に、その第一条は「天子が身につけなければならない諸芸の第一はご学問である」と書かれることになる。

痛烈な皮肉といっていいだろう。

 

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