坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

中国最初の人口大減少の時代を生きた曹操

黄河文明は、長いこと世界の四大文明のひとつと言われてきたが、中国には黄河文明以外にも、長江文明遼河文明などの文明があった。

それでも黄河文明の発生地帯が中原と呼ばれ、中国の中心地と呼ばれてきたのは、高度平原と呼ばれる黄河流域地帯が、文明の発生期においては、他の文明より生産力が高かったからだろう。

現代では稲作地帯である長江流域の方が生産力が高そうに思えるが、日本でも弥生時代以来の、湿地帯に稲の種を撒く粗放な農法での米の生産量は決して高くなかった。曹操が生きた『三国志』の時代では、まだ中原の方が、長江流域より生産力が高かったのである。

 

現代日本人である我々から見れば、黄色い大地が広がる高度平原というのは、砂漠と大差ない風景である。そしてその見方は当たってなくもない。

春秋戦国時代まで、黄土平原は緑豊かな土地だった。黄土高原の養分豊富な土が黄河に流れ込み、黄河が洪水を起こすことで堆積したことで黄河文明が育まれた。

しかし黄土高原の土壌はアルカリ性で黄土が固く、植物が育ちにくい。一度木を切ると、森林は再生しにくかった。中国の古い文献にも、「山の木を切れば百年山に入るな」とある。

秦の始皇帝が初めて中国を統一して、戦乱がなくなることにより、中国の人口が増える素地ができた。始皇帝の中国を漢の劉邦が引き継ぎ、中国は長い安定期に入った。

人口の増加といっても、5000万が歴代王朝の人口の上限だった。当時の農業技術では、それ以上に人口が増えることはなかった。人口が5000万を超えて億に達したのは、清の時代になって、とうもろこしやさつまいも、落花生など、より土地に適した作物を栽培するようになってからである。

漢は塩と鉄を専売にした。それだけ塩と鉄は儲かったということである。そして鉄を溶かす為に、木は伐採された。木の伐採により、腐葉土が雨に流されて失われ、養分のある表土が失われていった。

それでも国が平和で、戦乱がない間は、生産量が激減するということはなかった。農民が農作業に従事している限り、収穫は激減しないのである。

しかし一旦戦乱の時代に入ると、人は兵士として駆り出され、農地から引き離された。人が農地から引き離されている間に土壌が流出し、兵士が帰農しても、作物はろくに育たなかった。村落共同体で作物の不足を補えなければ、農民は流民となり、流民の行き着く先は野盗か軍閥の私兵となるか、そのいずれかであった。

農村に残った人々も、新たな兵の供出を求められた。

こうして負のスパイラルが続くことになる。収穫量が減少したところに、天災や疫病、蝗害が重なる。森林を失った土地は乾燥しやすく、旱魃もしきりに起こるようになる。

飢えや戦争で多くの人が死に、人口が大減少するようになる。中国の三国時代というのは、その最初の人口大減少が起こった時代である。その人口減少の度合いは、推計で多くて人口の半分、つまり5000万の半分、ひどいものでは人口が十分の一になったという推計もある。

この人口減少を回避するには、英雄が現れて一代で短期間のうちに天下を統一するしかない。

それができず、天下統一に時間をかけ、戦争で思うように成果が出ないと、外征をするための兵力を確保できるだけの、人口がいなくなってしまうのである。

そうなると、中国は長い分裂時代に入る。統一できなくなってしまうのである。

曹操はそういう、一代で天下を統一できなかった英雄だが、「統一し損ねた」というよりは、「統一できない状態になってしまった」と見るべきであろう。「天下三分の計」がなくても、中国は統一できない状態だったのである。

曹操の後の曹丕の代に、北方の辺境に住む人々に、「もっと国境の内側に住むように」と布告を出している。既に国境の遊牧民相手に、国民を守る兵力がなかったのである。三国のうち、一番人口の多い魏がである。

三国時代の後も、河北の農業生産量の減少は続いた。

唐王朝長安を都にしたが、長安のある関中台地は、その頃には農業生産量が大分下がっていたようで、長安では食糧が不足することがしばしばあった。そのような場合、皇帝は家族や廷臣、女官を連れて、副都というべき洛陽に移動した。

その長安、洛陽も、宋の時代にはもう首都になることはなく、隋の煬帝が作った大運河に近い開封が首都になった。元の時代には北京が首都になったが、それも北京が大運河で繋がっていたからである。その頃には「蘇湖熟すれば天下足る」「湖広熟すれば天下足る」と言われ、農業の中心が江南に移っていた。それだけ北部の生産力が下がっていたのである。

中国の人口の大減少、それは核戦争が起こったような衝撃だったろう。いわば曹操は、核戦争を生き抜いたような英雄だったのである。

 

曹操屯田制を行ったのは、収穫量の期待よりむしろ、農地に作物を植え続けることにあった。隋や唐の均田制も、農地に作物を植え続けるための制度である。作物を植え続けることだけが、不毛の地を農地に戻す唯一の方法だった。

曹操清酒を作ったという話がある。河北を拠点とする曹操が、主要な米作地帯でもないのに米の酒の改良を計ったとは考えにくいのだが、限られた穀物から、よりアルコール度の高い酒を作ろうとしたとは考えられなくもない。曹操は一度、禁酒令を出している。よほど穀物の確保に苦心したのだろう。

 

三国志』というと、劉備玄徳を視点にした場合、忠誠心というものが肌でわからないと入り込めない世界である。そして劉備視点でないと、悪役としての曹操が光らない。

しかし曹操視点でいくと、中国を統一できなかったところから中途半端な印象を受けてしまう。しかし人口大減少の時代を生きたと考えれば、違った視点で曹操を見ることができる。

曹操は詩人でもあるが、私が読んだ印象では、曹操の詩は意外と素朴である。兵士となって故郷を離れた者の悲しみを詠った詩や、酒を飲んで憂さを晴らす詩など、「馬上少年過ぐ」の伊達政宗のようにキザではない。

建安文学といわれたように、それは文学だった。文学である以上、それはヒューマニズムの表現である。

文学といっても、小説はない。中国で小説が流行するのは、口語体の文章の白話小説が登場する元代からで、それまではフィクションとしての小説はいやしめられてきた。詩だけがヒューマニズムの表現だったのである。

そして『孫子』に注を施した『魏武注孫子』である。

「兵とは国の大事なり。死生の道、存亡の道、察せざるべからざるなり」とあるように、戦争を始める前によく考えろと解いている。

このように見ると、曹操の狙いが蜀だとわかってくる。

荊州益州を手に入れた頃の劉備は大国の主だったが、孫権荊州を奪われると、蜀の天険を頼んでの小軍閥に甘んじるしかなくなった。その小軍閥を盛り立てるために、「漢朝再興」をスローガンに掲げた、儒教倫理ごりごりの軍事独裁国家へと変貌した。

諸葛亮は法正が法を守らないというので、あえて法正に法を作らせたというが、そんなことをすれば法正に都合の良い法が多くできるだろう。

蜀漢は人口90万人に対し、官僚と兵士の数が14万人と異常に多く、農民の負担の重い軍事独裁国家であったことは明らかである。また国内で相当の言論弾圧をやったらしく、魏が蜀を制圧した時に、孔明のお手製の記録以外手に入らなかったという。蜀とはそういう魏と戦うことを目的とした国で、ヒューマニズムとも無縁であった。

一代での天下の統一を諦めた曹操に、できることは限られていた。

曹操は詩を読んで、「それは人間らしい生き方じゃないよ」と暗に諭し、また『孫子』により「兵とは国の大事なり」と説くことで、蜀漢イデオロギーを批判していた。

「人間らしい暮らしをしたければ、戦争はほどほどにしないと」と、曹操は説いていたのではないか?

 

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