坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

淡路島を取らなかった長宗我部元親

長曽我部元親ほど小説にならない存在はない。
間違いなく英雄であり、四国を統一した(統一していないという説もある)業績を持ちながら、元親を小説にしようという者が現れないのである。
元親を書いた小説で有名なのが、司馬遼太郎の『夏草の賦』だが、


日本人は論理的になったのか? - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、全体にふわっとした感じで書かれており、なぜ元親が四国を統一できたのかよくわからない。
その理由は戦争を経験した人がまだ多く生きている日本で、特攻を思い出させるような苛烈な戦闘描写ができない時代風潮があったせいなのだが、ひとつふたつの合戦ならともかく、全体がふわっとしている理由にはならない。

元親の四国計略の鍵は、讃岐国の白地城にある。
白地城からは、阿波、讃岐、伊予、土佐へと、四国の全ての国へと通じる道がある。兵法でいうところの衢地である。元親はこの白地城を拠点にして、四国の平定を進めていった。
また有名なのが一領具足である。具足を一領しか持たない百姓(当時は兵農分離が行われていないので武士でもある)でもいくさがあればその具足を持って戦場に出る。戦国時代は武士は農民でもあるので、農繁期には長宗我部軍はほとんどいくさができなかったという見解と、農繁期も無理をしていくさをしていたのではないかという意見がある。『夏草の賦』は後者の方の見解で、秀吉が四国征伐に乗り出そうとした時には収穫が平年の半分にまで下がったと書かれている。事実かどうかは不明だが、私も司馬遼の見解に賛成である。
そう思うのは、元親の四国統一の早さである。1575年に土佐を統一してから、10年で四国を統一している。
例えば伊達政宗は、家督を継いでから七年で所領を二倍にしているが、政宗の伊達家は元々所領が70万石ほどあり、奥州で最大の勢力だった。政宗がその勢力を背景に野心的な領土拡大を行えば、七年で所領を倍にするのはそれほど難しくないとわかる。
武田信玄は、上杉謙信川中島で戦って、信濃の領有を確定するのに約20年かかっている。
毛利元就は、中国地方の覇者となるのに全生涯を費やした。
織田信長は、桶狭間の戦いから稲葉山城奪取まで6年かかっているが、信長には斎藤道三からの「美濃一国の譲り状」があり、信長に美濃の継承権があったことを加味して考えるべきである。
要するに、元親の四国統一は充分早いのであり、むしろ急いで四国を統一した感さえある。
「急いで」というのは、織田信長の存在があるからである。日本の中央部を支配する信長に対抗するためには、土佐一国では足りない。四国全土が必要である。
この元親の見立ては全く正しく、元親の四国統一の鍵が白地城と一領具足以外に見い出せない以上、元親が白地城を拠点に、農繁期も転戦を重ね、農地が荒廃するのも顧みなかったのではないかと想像されるのである。
そのように考えられる証拠もある。
例えば、元親は一時、領民に酒を飲むのを禁じている。『夏草の賦』では兵士が酒を飲むだらしない姿を見て、兵士の気を引き締めるために飲酒を禁じたとしているが、司馬遼はどうも、元親の本心に気づいていたようである。
三国志曹操も、酒の製造を禁じたことがある。中国の三国時代というのは人口の大激減時代で、後漢末期から三国時代にかけて、少なくとも人口は半分に、中には人口が十分の一になったというひどい推計もある。農地は顧みられることなく放置され、曹操は兵士が暇な時に荒れ地を耕作させた。
曹操が酒の製造を禁じたのは、戦争のための食料確保のためである。だから元親も食料確保のために飲酒を禁じたのだと私は考える。それだけ田畑が荒廃することが想定されていた。または実際に荒れていたのである。
もう一つ、元親が農繁期も一領具足を率いていくさをしていたと思われる証左は、年貢が二公一民であることである。二公一民というのは、江戸時代の水戸藩以外には、元親の長宗我部家しか聞いたことがない。領民を多く徴発して、耕作されていない土地が増えたから年貢を重くしたという仮説を立てることは許されるだろう。

元親自身、早くから信長に目をつけている。
嫡子の信親のために、信長の名前の一字をもらい、信長との外交に精を出している。
信長にとっても、元々京を支配していた阿波の三好氏が度々機内に攻めてくるのを牽制する必要があった。こうして、信長と元親の蜜月はしばらく続くことになる。

元親が四国統一を急ぐ必要があったのは、信長の勢力が近畿と中部にあったからである。信長が大阪湾から海を渡れば、すぐに四国を攻めることができる。
信長の勢力圏の外は、基本全て敵である。信長は各地の敵との戦いに忙殺されているが、いつそれらの敵を片付けて、四国に攻めてくるかわからない。信長と同盟を組むことができて、元親は一先ず安堵しただろう。

信長が美濃を手に入れてから使うようになった「天下布武」の公印は、秀吉の惣無事令とちょうど真逆の意味を持つ。
秀吉の惣無事令は諸大名に現状維持を求め、それを破る者を征伐する。関白の権威をもって、既に天下は秀吉のものだと示すのが惣無事令である。
一方、「天下布武」の公印は、各地の独立した勢力に現状維持は許さない、または現状維持は難しいという意思を示すものである。この公印が押された文書は諸国の大名に送られたが、諸国の大名もまた、信長の意思を受け取った。
この信長の意思に対する反応は3つある。1つ目は臣従する。2つ目は敵対する。3つ目はなお現状維持を求めるである。
1つ目の例は宇喜多氏などである。
2つ目の例は上杉や毛利などである。この二氏は信長の勢力が自分達に及ぶ前に信長と敵対した。この二氏には信長と同格の大名だという意識があったのだろう。
3つ目の例は、確証はないが朝倉氏だと思っている。浅井・朝倉が比叡山に籠もって信長と敵対した、信長にとって最も苦しい時に、「天下は朝倉殿持ち給え、我は二度と望み無し」と言ったという話がある。
案外本当かもしれない。信長がこう言ったと確実に証明するものはないが、信長が比叡山を焼き討ちした後、同盟者である浅井の応援に、朝倉は消極的になるのである。結局わずかの差とはいえ、朝倉は浅井より先に滅ぼされた。信長に敵対しなければ現状維持できると思ったのかもしれない。
信長に対し現状維持を望む場合、現実を正しく見ていない者がそういう態度を示しているようである。
天下布武」の公印により、現状維持が難しいと暗に示された以上、現状を維持するためには力によらなければならない。つまり信長と戦うことである。
戦わずに所領を維持したければ、臣従すればいい。大勢力で信長に臣従した例は宇喜多以外に見当たらないのだが、信長は宇喜多が信用できないことを度々秀吉に言ってるが、宇喜多は潰されることなく、短期間ではあるが信長の傘下で生き延びている。つまり信長の元でも、大勢力が生き延びる可能性はあるということだ。
敵対しないなら臣従すればよく、どっちつかずの態度を取った者が信長と戦う機会を逸して滅ぼされているのである。
そして、元親も結果的には、信長に対し現状維持を望んでしまったのである。

大阪湾に軍艦のように浮かぶのが淡路島である。
元親にとっても信長にとっても、互いに戦うためには淡路島を取らなければならない。淡路島を先に取った者にとって、淡路島は橋頭堡になる。
元親にとって、淡路島を信長に取られた場合、四国を制覇しても四国から出ることができなくなる。
四国から出られなければ、四国の兵力が元親の兵力の限界になり、信長は10万を超える兵力をもって四国を攻めることができる。
信長に対抗するには四国全土が必要なのはその通りだが、四国全土を制圧しても、信長の動員できる兵力に敵う訳ではなく、最終的には信長に負けることになる。
つまり元親が信長と戦うには、四国を制覇するだけでなく、反信長包囲網に参加する必要があるのである。そしてそのためには、淡路島を占領して、いつでも大阪湾に上陸できるようにして、信長を牽制できるようにしなければならない。
四国制覇と淡路島占領の、優先順位は淡路島の方にある。
なぜなら、淡路島を信長に取られてしまえば終わりなのである。そして淡路島を信長より先に占領できる機会はあった。
信長は摂津有岡城荒木村重丹波波多野氏、播州三木の別所氏、そして石山本願寺と戦っていた。
元親が土佐一国の兵力しか持たなくても、これだけの勢力と連携すれば信長を相当に翻弄することができる。
反信長包囲網のような複数の勢力との連携は、全体の連携がうまく取れないために各個撃破されてしまうという難点があるのは確かである。多分に他力本願な面が多い。
それでも反信長包囲網に加わらなければならないのは、四国を制覇しても結局信長に負けるからで、独立を維持したければ四国制覇を後回しにして信長と戦うべきであった。

元親が四国統一に精を出している間に、信長は丹波波多野、播州の別所、摂津の村重を下し、本願寺を勅命講和により、本願寺顕如を石山から退去させた。
これらのことが済んでから、信長は秀吉に命じて淡路島を占領させた。
なお本能寺の変で、明智光秀が家臣の斎藤利三の妹が元親の正室である緣により四国の申次(外交担当)となりながら、四国方面軍の司令官に任命されなかったから信長を恨んでいたとか、逆に家臣の親族を攻める信長を恨んでいたという説があるが、本能寺の変の真相はともかく、光秀が四国平定を担当することはありえない。
光秀の家臣が元親の親族ということは、そのつながりで情報が漏れる恐れがあるということである。だから淡路平定も光秀でなく秀吉にやらせた。淡路平定は四国への足がかりであり、元親に悟られて淡路を先に取られるようなことがあってはならなかった。
そしてその後、信長は手の平を返して三好と手を組み、元親に土佐一国と阿波半国を認め、それ以外の所領を召し上げると通告した。元親はそれを拒否し、信長の三男信孝を総大将とした軍勢が大坂を出港する直前に本能寺の変が起こり、元親は救われる。

「鳥無き島の蝙蝠」と、信長は元親を評したという。
信長の元親への評価は低かったと、この言葉よく引き合いにされるが、注意すべきは、信長が敵対した大名を批判した記録は、私の知る限りないということである。浅井や朝倉の髑髏杯などはあっても、それは長年苦しめられた憎しみの表現であり、評価とは別である。
信長は武田信玄上杉謙信北条氏康毛利元就と同時代人だが、全て信長より先輩で、謙信を除けば、矛を交えることなくこれらの先輩は先だっていった。
元親だけが信長の後輩で、土佐一郡の領主から四国の覇王にのし上がったのである。信長は元親に、自分と同型の英雄を見ていた。
しかし時代背景は信長の台頭以前と以後では一変し、地方ブロックの覇者で良かった時代から、信長という中央勢力に臣従するか戦うかが、戦国大名にとっての重要な課題になっていた。この選択は信長の勢力が自分達に及ぶ前になされなければならなかった。
そのことに気づかず、地方の覇者になろうと血道を上げた元親に、自分と同じ英雄だと思っていたからなおさら、信長は元親に失望したのである。

信長の死後、秀吉の時代になったが、元親も反省したらしく、柴田勝家雑賀衆と手を組んで秀吉と対抗しようとした。
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉が突貫工事で大坂城を築いたのは、元親が上方に攻めてくるのに備えるという意味もあった。
しかしその心配も杞憂で、元親は淡路島さえ奪取することができなかった。そして秀吉の弟の秀長を総大将として四国征伐が行われると、元親は秀吉に降伏するようになる。
秀吉の傘下で九州征伐に参加するが、その先鋒として元親は、戸次川の戦いで島津軍に敗れ、嫡男の信親を戦死させてしまう。
その後元親は覇気を失い、秀吉没後の天下の情勢にも手を打つことなく、子の盛親の代に、成り行きで西軍に加担し、総大将の毛利の意向を気にして戦うこともせず、敗軍の将として改易される。そして盛親は大坂夏の陣で散り、長宗我部家は絶える。

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