坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

コンスタンティヌスになろうとした伊達政宗

伊達政宗は17歳で家督を継いでから7年、若干24歳で奥州南部を統一した。その領国は140万ほどになる。
秀吉に臣従する前の政宗の支配地域は、山形県置賜地方宮城県福島県に及ぶ。政宗会津黒川(若松)に拠点を移す前は米沢にいたが、政宗家督を継いでから、宮城方面に出征したことは一度もない。戦国時代の政宗の征服事業は、全て福島方面に行われている。
つまり宮城県の大部分は元々伊達家の勢力範囲だったのであり、福島方面は政宗の秀吉への臣従後、蒲生氏郷が秀吉から拝領した所領の石高が分かれば、政宗がその征服事業でどれだけの領地を獲得したのかがわかる。
氏郷の死後、会津を得たのは越後から転封した上杉景勝である。転封の際、事前に獲得していた庄内地方は石高20万石で、大崎一揆の影響で政宗岩出山に移された時に氏郷が得たのが米沢で、関ヶ原の後、上杉は米沢のみに減封されたが、その石高は30万石である。
会津に移封された景勝が所領が120万石なので、ここから庄内と米沢の合わせて50万石を引けば、会津の石高は70万石となる。
政宗岩出山に転封された時、10万石減らされて58万石になったという。つまり米沢にいた時は68万石だったのであり、(ウィキペディアには72万石だったと書かれている)政宗家督相続から所領を約2倍にしたことになる。また70万石などという勢力は奥州には他にないから、伊達家は奥州最大の勢力だった。
戦国時代、武田信玄織田信長などは家督相続時点で20万石はあった。毛利元就長宗我部元親などは、スタート時点で3〜5万石だったろう。戦国時代に一代で大を成した戦国大名で、スタート時点で70万石あった大名は政宗以外にいない。
また領土拡大の倍率で言えば、政宗は他の戦国大名に比べて倍率が低い。しかしもちろん、それは政宗戦国大名としての資質が低いということではない。たったの7年で領土を2倍にしたということは、政宗が他の戦国大名に劣らない資質を持っていることを示している。

関ヶ原では、石田三成上杉景勝により、家康を東西から挟み撃ちにする戦略だったと言われている。また常陸佐竹義宣が東西どちらにも与せずにおり、政宗が上杉と和睦し、佐竹と手を組めば天下を取れたとではないかという意見もあるがそうだろうか?
関ヶ原では、秀吉の係累福島正則加藤清正が家康に味方し、また山内一豊が所領を家康に提供するという離れ技をやってのけて、東海地方の大名が争って家康に所領を提供するという事態となった。
また合戦当日は西軍の名目上でも総大将である毛利が家康に不戦を誓っており、小早川、脇坂、小川、朽木、赤座の寝返りにより東軍の勝利となった。
合戦後は東軍は三成の居城佐和山城を落とし、大坂城にいた毛利輝元本領安堵を誓って大坂城を明け渡させた。しかし本領安堵の書状には家康の署名がなく、輝元が大坂城を明け渡すと、家康は手の平を返して毛利を120万石から37万石への大減封を行った。
北陸は前田利長を80万石から120万石に加増することで収め、九州は黒田長政を52万石、小西行長と戦っていた加藤清正に肥後56万石を、佐賀の鍋島直茂は西軍でありながらも家康に兵糧を提供し、関ヶ原戦後は東軍に寝返って立花宗茂や小早川秀包を攻撃した功で本領安堵された。合戦後に猛反撃を行った島津だけは、家康も手をつけられず本領安堵するしかなかった。こうして家康は九州を収めた。
四国は南宮山の毛利の動向を気にして参戦しなかった長宗我部盛親を改易することで収めた。
常陸の佐竹は、家康は最も時間をかけた。その理由は家康は征夷大将軍となり幕府を開くが、将軍職に付随して源氏の長者に家康はなる。
佐竹は筋目の怪しい他の大名と違い、源氏の名門中の名門である。家康としては源氏の長者として、佐竹を丁重に取り扱う必要があった。佐竹が東西どちらにもつかなかったのは、案外こんなところに理由があるのかもしれない。関ヶ原から2年後、佐竹は常陸54万石から秋田20万石に減転封となった。
関ヶ原の合戦後、国元で徹底抗戦の姿勢を見せたのは島津だけなのである。他の大名は改易された者でさえ抵抗せず、皆家康に従った。
政宗は家康から100万石のお墨付きを貰っていたが、政宗はそのお墨付きを当てにしていなかった。
というより、政宗は反覆常ない人物と思われており、また反覆常ない人物だと思われたいと思っていた節がある。
政宗は家康に「上杉を抑えるだけでいい」と言われていたが、政宗は上杉を積極的に攻め、さらに同じ東軍の南部の領内で和賀一揆を扇動した。
このため100万石のお墨付きをふいにされた。関ヶ原戦で政宗が得たのはたったの2万石。上杉から奪った領地を追認されたにすぎない。
政宗の叔父の最上義光も相当のやり手だが、関ヶ原では家康に忠実に戦い、24万石から57万石へと大加増されている。義光に比べ、政宗は失態を演じた感が強い。
しかし政宗は、加増よりも大きな、無形の財産を得ていたのである。

関ヶ原の後、政宗は仙台に城を築くことを家康に願い出、許された。しかし和賀一揆を扇動した嫌疑により(事実扇動していた)、天守閣を建てるのは遠慮した。
その仙台城の表書院に帝座の間というのがある。藩主が座る所より一段高い所にある間で、菊の紋や桐の紋で装飾され、政宗天皇を迎えるために設けた間だと説明されている。
また政宗は、今井宗久の息子の今井宗薫に向けて、「秀頼は成人するまで家康の手元で育て、成人後は関東に2、3ヶ国を与えるべきだと思うが、私からは申し上げにくいのでそちらから冗談めかしてでも伝えてほしい」と手紙を送っている。
確かに、秀頼が難攻不落の大坂城にいるから後々の騒乱の元になるのであり、実際にそうなった。秀頼が関東に移封されていれば、秀頼は生き延びることができたかもしれない。
しかし実は、政宗のこの言動により、豊臣家の命運は決まったのである。
帝座の間に天皇に招聘するなど非現実的である。しかし秀頼が関東に来れば、秀頼を仙台に迎え入れることは不可能ではない。政宗は豊臣家との和解の道を模索すれば、秀頼と手を結ぶと暗に家康に示したのである。
関ヶ原の後、家康は13年もの間豊臣家を放置した。そして形だけの和解の措置が取られた後大坂の陣となり、秀頼の遺児の国松も殺されて豊臣家の血筋は絶やされた。大坂城は盛り土されてその上に新たな城郭が建てられ、阿弥陀ヶ峰にある秀吉の廟所から秀吉の遺骸が掘り起こされて川に投げ捨てられるという、日本史上かつてない、旧支配者を忘れさせる方策が採られた。秀頼の不幸は、政宗がいたことにあると言っても過言ではない。

「関ヶ原は家康が絶対勝てるいくさじゃなかった?」~歴史学の進展に逆行して見えるもの|坂本晶の「後悔するべからず」|note

で私は「天下人」という概念を提示した。
「次期天下人」というべき存在もいる。秀吉に対する家康がそれだが、家康に対する政宗もまた、「次期天下人」というべき存在になっていった。秀吉や家康を相手に出し抜こうとする態度が、「徳川が天下を失えば」政宗が天下を取ると人々に思わせていったのである。
もっとも子が幼い秀吉に対する家康は、「秀吉が死ねば」家康の天下になるという「次期天下人」だった。しかし家康に対する政宗は、家康が死んでも徳川が天下を失うということはなく、「徳川が天下を失えば」政宗の天下になるという「次期天下人」だった。そして徳川が天下を失う要因は、豊臣家が存続する間は豊臣家の動向だった。
徳川の世になっても、政宗は自分が「次期天下人」であることをアピールし続けた。
ある時徳川家の重臣の屋敷に茶の湯に招待され、重臣の茶器を見せてもらうと「これはつまらぬ物でござる」とその場でその茶器を折り、後で名器と言われる茶器を届けるということをしたりした。賄賂だが、巧妙に言い訳を用意しているだけでなく、自らの灰汁の強さをアピールしている。
また100万石のお墨付きの話を何度も持ち出して、とうとう徳川家の重臣にそのお墨付きを破り捨てられたりした。このように反骨精神をしばしば発露することで、「もし徳川の天下が終われば、政宗が天下を取る」と人々に思わせていったのである。
そういう政宗に対し、家康も負けていなかった。
家康の六男忠輝と政宗娘婿であることを利用し、忠輝の付家老に「日本一の驕り者」と呼ばれた大久保長安を付けた。長安は金山奉行として、産出量の低下した金銀鉱山を次々と復活させていったことで有名で、莫大な資金を持っていた。
政宗松平忠輝大久保長安の資金、そして豊臣家が結びつけば天下が取れる。と思わせるのが家康の狙いで、政宗が逸って謀反に走るのを期待していたのである。政宗もそんなことはわかっていて、100万石のお墨付きの話を家康に捩じ込んだりしながら、謀反に踏み切るようなことはしない。そういう政宗に対し、家康も何食わぬ顔で政宗を賓客のように遇し続けた。
このようにして、時は過ぎていった。

そして政宗は、大博打に出る。1613年、サン・ファン・バウティスタ号を建造し、太平洋と大西洋を横断し、スペインとローマに向け、支倉常長使節として送ったのである。
通常、この使節派遣は政宗がスペインと同盟を結ぼうとしたものだと言われている。しかしスペインは1588年のアルマダ海戦でイギリスに敗れている。アルマダ海戦時のスペインの無敵艦隊は、水夫8000人、兵士18000人である。これがスペイン本国の海軍兵力だった。支倉常長を派遣した時から年月が経っており、またアルマダ海戦でスペインがすぐに海洋覇権を失った訳ではない。それでもスペインの海軍兵力の減少は避けられない。
またスペインが本国から直接に兵を日本に送ることも考えにくく、借りに政宗とスペインの同盟が成立しても、派遣されるスペインの兵はノヴァ・イスパニア、つまり今のメキシコの兵となるだろう。
その兵力がどれ位かといえば、太平洋を横断して船が沈没するリスクを考慮して、5000人も送ることはないと考えられる。
仙台藩だけで15000人の動員ができる。関ヶ原では東西合わせて20万の兵が動員された。政宗がスペインの国情をどれだけ理解して使節を派遣したのかはわからないが、少なくとも兵力を当てにしていたのではないことは確かである。
支倉常長が、スペインの後ローマに行き、ローマ教皇に面会したことが重要である。
当時、日本には約30万人のキリシタンがいたと言われている。
そのキリシタン達が政宗に従う何かを得るために、政宗使節を送ったと考えるべきである。
キリシタン政宗に従う何か、それは政宗キリスト教徒の王にすることである。つまり西洋カトリック世界での戴冠式を行うことであり、そのための大司教の日本への派遣をローマ教皇に求めたのではないかと思う。
豊臣家、忠輝、長安、そして30万人のキリシタン政宗と結びつけば、家康と互角以上に戦うことも不可能ではない。スペインの援軍は箔付であり、人数はごまかしがきく。
実は私はついこの間までは、織田信長キリスト教徒の王になろうとしていたと思っていたが、今は信長は自分を権威の源泉とすることで天皇を越えようとしていたのであり、キリスト教徒の王になることは、自分を権威の源泉とすることに失敗した時の予備的な構想であったと思っている。信長の在世中に大友宗麟天正遣欧少年使節を派遣したが、信長がキリスト教徒の王になる気だったなら、この使節に何らかの関係をしたはずであり、その形跡がない。信長としては、ローマ教皇とのパイプを作る必要は感じていたが、自分が直接に関与する段階ではないと判断していたのだろう。
江戸時代を通じて、九州を除けば宮城県隠れキリシタンが多い地域だった。
もし政宗キリスト教徒の王になったなら、政宗は日本のコンスタンティヌスになることになる。

日本という国が嫌らしく思うのは、日本では優れた者を優遇することが少なく、政宗のように冷遇することができない者が現れた場合でも、その大望を遂げさせるのではなく、その人物が満足せざるを得ないぎりぎりのところを狙うことで、その人物を骨抜きにしようとすることである。
政宗の庶長子の秀宗を伊予宇和島藩主にする話を持ち掛けたのは、政宗が奥州の覇王になった実績を持っていても、政宗が先祖伝来の所領を減らしたことが、政宗のコンプレックスになっていたからである。
仙台と宇和島では連携はほぼ不可能であり、しかも仙台藩支藩である。政宗が実質自分のものとしたとは言い難い。それでも宇和島10万石で、政宗は秀吉に奪われた所領を回復できるのである。また後に常陸と近江に2万石の飛び地領を貰い、政宗は石高の面では先祖から受け継いだものを取り戻すことになる。
そして宇和島藩設立が、政宗に天下を諦めさせるための条件だった。
スペインとの同盟、ローマ教皇と通じキリスト教徒の王になるといっても、往復2年はかかる使節を何度も派遣しなければ実現しない。そしてそれだけの時間をかけることを、70を超えた家康は待ってくれなかった。
大久保長安は1612年に死に、翌年長安の不正蓄財の罪で長安の息子達が切腹させられ、政宗が頼みにしていた一角が崩されていた。1614年に方広寺鐘銘事件、大坂冬の陣が起こり、政宗も参戦することになる。

大坂夏の陣政宗後藤又兵衛真田信繁と戦った。
後藤又兵衛と戦った時(明石全登と戦った時とも言われる)、政宗は味方の神保相茂を味方討ちにし、わずか300人の神保勢は壊滅した。「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と政宗は主張したという。
また真田信繁相手には勝てなかったが、戦闘中に水野勝成の家中の三人を味方討ちにし、馬を奪ったりした。水野勢に切り込まれて馬は奪い返されたが、そのことに対し政宗は抗議しなかった。
そのように反骨精神を見せながら、何食わぬ顔で真田信繁の娘を引き取ったりした。信繁の娘は二代目片倉小十郎(重綱)の妻になった。
大坂城が落ち、秀頼が自害したが、その日の朝、家康は脱兎の如く駆け、大坂から伏見城に入った。世間では政宗謀反の噂が流れた。

しかし、政宗が神保勢を壊滅させたのは、関ヶ原での島津の真似である。天下を諦めた政宗には、島津しか張り合う相手がいなかった。
大坂の陣の後、忠輝は改易されて八丈島に流され、戻ってきた支倉常長は失意のうちに死去する。こうして政宗の天下取りへの野望は潰えた。

古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。