坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

認めないと怖い武士の殉死

武士というのはすぐ死ぬ。
武士は長い間この国の主権者でありながら、基本的に賤民であり、自らを賤しめていたことが、武士を死に向かわせていたようである。
そのいい例が切腹である。
武士は死ぬのにわざわざ腹を切る。
大河ドラマなどでもよく観る光景だが、わざわざ腹を切ってから頸動脈に刃を当てたりすることもある。
死ぬなら頸動脈を切った方が簡単に死ねるのだが、武士はわざわざ腹を切る方を選ぶ。実際には腹を切ると、死ぬまでに時間がかかるらしい。
この合理的とは言えない死に方が、武士にとってのひとつの死に様となった。

武士のもう1つの特徴として、殉死がある。
主君が死ぬと、家臣がその後を追って切腹するのである。
殉死は武士の発生から続き、江戸中期まで続いて、なかなか止められなかった。
先代の当主が死ぬと、次の当主としては家臣に殉死されるよりも、生きて自分に尽くして欲しいと思うのは当然である。
しかし主君が殉死を禁止しても、家臣がそれを破って殉死する例が後を立たないのである。
殉死者を認めないと、痛いしっぺ返しを食らうことがある。
伊達政宗の家臣須田伯耆の父は、先代の輝宗の死に伴い、政宗が殉死の禁止を言い渡したにもかかわらず殉死した。
政宗は須田伯耆の父の殉死を叱った。
政宗は秀吉の天下統一の直後、大崎葛西一揆の扇動を行うが、政宗一揆加担を真っ先に訴えたのは須田伯耆だった。須田伯耆は父の殉死による忠を認めなかった政宗を憎んでいたのである。

森鴎外の『阿部一族』は、熊本藩の家臣が殉死を認められなかったことに一族で抵抗し、藩の上位討ちに遭い一族が討手と死闘を演じて全滅する物語であり、当然史実を反映している。
詳しく述べると、藩主細川忠利の病が悪化し、家臣が次々と殉死を願い出る中で、同じく熊本藩士の阿部弥一右衛門も殉死を願い出る。しかし忠利は、「生きて新藩主を助けよ」と弥一右衛門に命じ、殉死を認めなかった。
旧臣達が次々と殉死していく中で、殉死を止められた弥一右衛門は命を惜しんでいると家中で非難されるようになった。そこで弥一右衛門は一族を集め、彼らの前で切腹してみせた。
ところが今度は、弥一右衛門が主君忠利の遺命の逆らったことが問題視される。阿部家は殉死の一族として扱われず、むしろ家格を下げられてしまった。
弥一右衛門の長男の権兵衛は憤懣やる方なく、忠利の一周忌で髻を切って藩の阿部家への仕打ちに抗議してみせた。
すると藩は非礼だとして権兵衛を捕縛し、切腹でなく、盗賊同様に縛り首にしてしまった。
こうして藩から度重なる屈辱を受けた阿部一族は、弥一右衛門の次男の弥五兵衛を中心に屋敷に立て籠り、藩に抗議する姿勢をみせた。そして藩は討手を差し向けて、阿部一族は討手と壮絶に戦って全滅する。
史実では阿部弥一右衛門は細川忠利から殉死を止められてはおらず、阿部権兵衛は代官を罷免され、知行も一旦は兄弟で分割されたが、すぐに元に戻しているため、家格を下げたとは言えない。
殉死の原因は新旧の家臣の対立で、阿部家も忠利に新規に召し抱えられ、藩政改革に取り組んでいたた新参者だった。つまり旧家臣団の恨みを買っていたということである。

しかし史実に基づく背景は、かえってこの阿部一族の事件の壮絶さを物語っている。
家格を下げられた訳ではない阿部家が(権兵衛が代官を罷免されたとはいえ)、一家全滅するほどの抗議をするというその情念の強さである。殉死はただ殉死者として扱わないだけでこれだけの憤懣を遺族に与えてしまう。
私が『阿部一族』に着目するのは、この事件が江戸時代のことだからである。
江戸時代以前は、武士は主君に咎められれば、出奔して諸国を放浪したり、主君に討手を差し向けられれば当然のように迎え討ったりした。しかし江戸時代になってからは、そういう事件は一切ない。
大名でさえ、江戸期を通じて多くの大名が改易されたが、改易に抵抗して反逆した者など一人もいない。
そのように無抵抗を貫いてどうするのかといえば、御家再興に賭けるのである。
改易されてから孫や曾孫の代になって、元の約10分の1の家禄で幕府に旗本として取り立てられることがある。それが御家再興である。
家禄が10分の1になっても御家再興を喜び、反逆などは決してしない。それが江戸期の武士である。
しかし徹底して無抵抗な江戸期の武士が全滅するまで抵抗したのが阿部一族の事件である。武士は何かというと簡単に死ぬが、殉死者を殉死と認めない時だけ、激しく主君に抵抗するのである。

殉死は4代将軍家綱の時に、保科正之を中心とした幕閣によって「不義無益」として禁止された。
殉死の禁止自体は正しい。しかし「不義無益」というのはどうか?
殉死の禁止によって、武士は幕末の尊王攘夷、倒幕運動まで、全く反逆というものができないようになってしまったのだが……。

 

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