坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

初めて政権を作った藤原頼長

藤原頼長という人物は、王朝以来、日本に政権を作った最初の人物だろう。
王朝とは、奈良時代律令政治と藤原摂関政治までのことを指してこの場では使っている。律令政治というのはよほど日本の実状に合わなかったようで、藤原摂関政治によって解体されている。
藤原摂関政治は表向き律令政治を貴びながら律令政治を解体したが、政治的な抱負に乏しく、政権とは言いがたいところがある。平たく言えば藤原氏の自家の繁栄しか求めていなかったということである。
頼長は関白藤原忠通の弟で、齢が23歳離れていた。
最初男子がいなかった忠通の養子になったが、忠通に嫡子基実が生まれると、兄から摂関の地位を譲られるのを諦めざるを得なかった。
忠通と頼長はそれぞれ自分の養女を近衛天皇に入内させて対立した。
忠通は「摂関以外の者は立后できない」と鳥羽法皇に奏上して対立した。頼長は父の忠実の協力により養女を皇后にしたが、忠通との対立は決定的になった。

忠実は忠通から、忠通に相続させていた多くの荘園や藤氏長者の地位を取り上げて頼長に与えた。鳥羽法皇はそのような藤原氏の内紛を見て、頼長を内覧に任じた。内覧は天皇が読む政治上の文書を天皇に先んじて読む役職で、役務上関白とほとんど違いがない。
ここから頼長の活躍が始まり、「腹黒く、よろずにきわどき人」と評され、左大臣であったことから「悪左府」とあだ名された。
頼長は聖徳太子の十七条の憲法により天下を撥乱反正すると、『台記』という自らの日記に記している。
鳥羽法皇の寵臣藤原家成の邸宅を破壊したり、仁和寺の境内に検非違使を送り込んで僧侶と騒擾を起こしたり、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を強引に追捕しようとして流血沙汰を起こしたり、上賀茂神社の境内で興福寺の僧を捕縛するなどということをした。
また無法な面もあり、太政官の官人を殺害した犯人が恩赦で釈放されたのに怒り、家来の秦公春に命じて犯人を殺したりした。この時は「天に代わって之を誅するなり」と『台記』に記している。

日本の歴史を変えた、マウンティングによる「政権」システム - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、権門勢家の世の権力者はしばしば政権を強化して「政権」にするために、敢えて横暴なことをやってマウンティングを行った。頼長の横暴もそれと同じ類いである。
しかしその横暴も、白河法皇は孫の鳥羽天皇に自分が手をつけて妊娠させた女性を押し付けたりしたが、白河法皇藤原道長同様、「国家はかくあるべし」という思想を持っていなかった。

頼長は特に寺社勢力を問題視していた。
荘園には「不入の権」があり、朝廷の警察力が及ばなかった。公家ならば朝廷内の序列により捜索に協力させることができたが、寺社勢力は宗教的権威を盾に警察権の介入を拒んだ。だから犯罪者は、寺社勢力の荘園に逃げ込めばそれ以上追跡されなかったのである。
頼長は、そのような宗教勢力を抑圧、マウンティングした上でその上に立ち、平安時代の乱れた治安の回復に努めたのである。

頼長は忠通との争いの後も、かつて忠通の養子だったことを恩に感じ、忠通に会えば丁寧に挨拶知という。
頼長は自分個人の出世でなく、摂関家として事に当たらぬ限り、諸権門の上に立って支配し、自分の目指す国家のあり方を示すことはできないと考えていた。
頼長は奥州藤原氏にも年貢の増徴の要求を呑ませたりしたが 、近衛天皇鳥羽法皇に嫌われ、寺社勢力を敵に回して孤立していった。
近衛天皇崩御すると、政敵の忠通や信西から「近衛天皇を呪い殺した」と噂を流され、鳥羽法皇は怒って頼長の内覧を停止した。
さらに鳥羽法皇崩御すると保元の乱が起こり。戦いに敗れて頼長は戦死した。

頼長の後に、後白河天皇の元で権力を握った信西は、「九州(天下、日本のこと。この時代、九州は九州地方を意味していない)の地は一人(治天の君、この場合は後白河天皇)の有也」という王土思想を唱え、諸権門の荘園の拡大を抑制した。
その信西平治の乱で討たれ、その後平氏政権を打ち立てた平清盛は、日宋貿易による貿易立国を目指した。清盛が不評を買っても福原遷都にこだわったのは、貿易立国こそが平氏政権の存在意義で、その存在意義を体現するのが福原だったからである。
平氏が滅亡した後、右近衛大将に就任した源頼朝は、「天下の草創」と唱えて、武士による新しい政治を行うことを表明した。

約400年続いた平安時代は、国家が解体される歴史だったが、平安時代末期になって反転するように、国家形成を意識した政権が次々と誕生した。この政権を担った者達の意識は、平安時代400年を通じて醸成されたものだが、藤原頼長の政治はそういう政治の最初の例である。

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