源頼朝が挙兵をし、石橋山の戦いで敗れ安房に逃れ、そこで兵を集めて房総半島を回って鎌倉に入った。
頼朝は敵対した者の所領を奪った。これは日本史上画期的なことで、それまでは武士は朝廷からの恩賞を目当てに働き、敵の所領は奪わなかったのである。
頼朝は東海道を支配し、元号が養和、寿永と変わってもその前の元号を使い続けた。朝廷に従わないという意志の表明である。
ここに、八幡太郎義家の後三年の役の踏襲がある。
白河法皇の謀略~清和源氏の苦悩 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で述べたように、義家は後三年の役で戦費を朝廷から支給されず、やむを得ず貢納を滞らせてそれを戦費に当てた。そして役が終了すると、朝廷は役を私戦として義家を咎め、恩賞を与えず、滞らせた貢納の返済を求められた。
頼朝は自らの東国支配権を朝廷が認めるまでは、朝廷に貢納を行わない姿勢を見せたのである。朝廷は平家が都落ちした後の寿永2年(1183年)頼朝の東国支配権を認めた。1185年の守護・地頭設置権取得の前に、ここに鎌倉幕府は始まったといえる。
頼朝は、それまでの源氏の運命が一人に集約されたように、自分の成すべき歴史的役割をよく理解していた。
海上貿易に力を注ぐ平氏と違い、土地に根ざす源氏は、所領の相続が惣領制となっていないこの時代では、血族同士の争いとなるのは当然の帰結だった。
また頼朝は御家人の欲望を満たすために擁立されているのをよく理解しており、そのために自分の兄弟を御曹司として特別扱いはせずに、他の御家人と同列に扱った。
さすがにに木曽義仲や平家の追討には弟の範頼や義経を大将にしたが、弟達を監督するために御家人を軍監としてその動向を監視させた。この頼朝が作った制度は軍目付として、後々まで武士の制度として引き継がれる。頼朝の政治能力は、伊豆の流人として家を成さずに20年もの時を過ごしていたとは思えないほどである。
頼朝の幸運は、義経という軍事的天才を弟に持っていたことだった。義経の活躍により、平家はわずか1年で滅亡する。
そして敵が奥州藤原氏のみとなると、「軍中にあっては将軍の命に従い、天子の詔を聞かずという格言がある」という御家人の大庭景能の意見に従い、奥州征伐を行う。これも白河法皇が後三年の役を公戦と認めなかった朝廷に対する当てつけであり誰を敵とするかは頼朝の意向によって決まるということを御家人達に再確認するものだった。この大庭景能の言葉により、朝廷は頼朝の軍事行動を追認する機関に過ぎなくなった。
頼朝は流人であったため、本来家を持たず、姻戚の北条氏とひとつになることで家政を行った。北条氏の隆盛の一番の理由はここにある。
このことが御家人を刺激した。
源氏と姻戚関係になってその人物を将軍にすれば、巨大な権力を得られると思った御家人達は、頼朝の孫の一幡、栄実、平賀朝雅など源氏の一門を擁立した。この人物達は謀反の罪で討たれ、頼朝の源氏は滅んだ。
失権となった北条氏は、源氏の将軍は立てず、藤原将軍、親王将軍を擁立した。源氏の将軍を立てて争乱の元の作らないためである。北条氏は一門で幕府の要職を独占し、御家人を統制したため、鎌倉時代は比較的争乱の少ない時代となった。
そして北条氏は、御家人が勝手に源氏の旗頭を擁立しないように、源氏の棟梁となるべき一族を作った。これが足利氏で、北条氏は代々足利氏と婚姻を重ね、官位の面で優遇した。
鎌倉幕府が滅び足利尊氏が台頭して室町幕府が成立すると、源氏を持ち上げる運動が起こる。
源頼光の酒呑童子退治もこの頃に成立する。時は南北朝時代という、南朝が正統とされる中で、足利の権威を南朝に対抗できるように高める必要のあった時代である。
面白いのは、源頼朝や足利尊氏が出た河内源氏でなく、摂津源氏の頼光がおとぎ話の主役であることである。また源頼政も摂津源氏だが頼政の鵺退治は鎌倉末期に成立した『平家物語』が初出である。
しかし一方、足利将軍への権威の収斂も忘れてはいない。
白河法皇の謀略~清和源氏の苦悩 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
の義家の跡を継いだ義忠の暗殺については、義家の次弟の義綱の子義明が真犯人だとされ、それが白河法皇の源氏分断の策だということは既に指摘した。
しかしそうではなく、義家の三弟の新羅三郎義光が真犯人だとする説があるが、この説は白河法皇の策略とはおそらく無縁であり、同時代の資料にはない説で信用できない。
「義光黒幕説」が出た『尊卑分脈』は南北朝時代から室町初期の成立であり、この説の意図するところは源氏の嫡流を八幡太郎義家の系統に絞ることにある。新羅三郎義光の系統は甲斐源氏の武田氏や常陸の佐竹氏など、それなりに有力な氏族があった。こういった氏族が源氏の正統を名乗らないように釘を刺したのが「義光黒幕説」である。頼朝の時代なら同じ義光系の平賀朝雅を擁立することもあったが、南北朝時代には足利氏に権威を一本化する必要があり、源義家が白河法皇から迫害的な措置できる受けたことと、私財を投じて武士達に恩賞を与えたことから、義家の系統こそが源氏の嫡流であるとの認識は武士達の間に浸透していた。そして義家の系統というのは足利一門か新田氏しかいないのである。
室町幕府は南北朝の合一を成し遂げたが、3代将軍義満や、6代将軍義教の将軍権力強化の努力もむなしく、源氏将軍による幕府への遠心力には歯止めがかからなかった。
そして応仁の乱により戦国時代に突入すると、将軍だけでなく各地で権威の崩壊が始まり、各地で守護大名が衰え、戦国大名が台頭した。その戦火の中から織豊政権、江戸幕府という、鎌倉、室町よりも統制に優れた政権が誕生することとなる。
源氏というのは、日本の歴史を推進する宿命を負った一族である。
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