坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

白河法皇の謀略~清和源氏の苦悩

本来、清和源氏八幡太郎義家の代で天下を取るはずだった。
後三年の役で朝廷が義家の活躍を認めていれば、源氏は関東と奥州を支配し、その支配領域は後年の源頼朝鎌倉幕府に匹敵することとなり、全国に河内源氏に対抗できる軍事勢力は存在しないこととなる。
それを認めず、むしろ源氏武士団を解体しようとしたのが白河法皇である。

白河法皇後三年の役を義家の私戦とし、義家に恩賞を与えなかった。
しかし後三年の役当時、義家は陸奥守であり、清原氏の内紛は義家の管轄下のことであった。義家としては争いを放置する訳にはいかなかったのである。
義家は清原清衡(後の藤原清衡奥州藤原氏の祖)とその異父弟の家衡(清衡は藤原経清の子で清原武貞の養子)を調停して奥六郡を三郡ずつ分与したが、応徳3年(1086年)に家衡は清衡の館を襲撃し、清衡の妻子は全て殺された。そこで義家は清衡に味方した。
義家は義将である。しかし朝廷は義家の行為を認めなかった。9月に朝廷は義家の弟義親(賀茂次郎)に事情聴取をしたが(京にいる義親に陸奥での戦争の何の事情聴取をしたかは不明)、義親が陸奥に赴くことは許さず、寛治元年(1087年)7月、朝廷は合戦停止の官使の派遣を決定した。
それを受けて、義家の三弟義光(新羅三郎)は朝廷に無断で義家に味方するために陸奥に下向した。朝廷は義光の官職を全て剥奪した。

後三年の役まで、義家は京の花形の武将だった。
しばしば白河法皇行幸を供奉し、園城寺の悪僧や騒擾を起こす武士を追捕したりした。
しかし後三年の役は義家の私戦として恩賞が与えられず、戦費も支払わなかった。さらに義家は陸奥守を解任された。
さらに戦時中に滞納していた金などの貢納の未納分を請求され続けた。義家は未納分を戦費に回していたので、義家には支払うことができなかった。
義家は承徳2年(1098年)に白河法皇の許しで官職を得るまで、官職に就くことができなかった。奥州は清衡が藤原姓に復帰して独立勢力を作り、源氏による奥州支配は水泡に帰した。
やむを得ず義家は、私財をなげうって傘下の武士達に恩賞を出したが、白河法皇は義家への荘園の寄進を禁じたという(しかし荘園寄進の禁止が本当にあったかは、近年疑問が呈せられている)。
義家が後三年の役を始めたことについては、朝廷の官符が無い以上義家の行為は違法だという学説もあるが、この場合は朝廷の措置に問題がある。
遠隔地で紛争が起こった場合、今のようにリアルタイムで通信が取れない時代は、現地の将軍に大きな裁量を与えるのが通例である。もっとも現地の将軍の裁量で始めた紛争を朝廷はその権力で止めることができるが、その場合義家の裁定に問題があったなどの正当な理由がなければ不当な処分だと言える。そして義家の裁定に問題があったなどとは言われていないのである。
藤原経清の子である清衡に清原氏を相続する権利があったかを疑問視することもできそうだが、清衡、家衡の兄真衡(清衡にとっては父母共に違う兄)は子がなく、平氏の出である成衡に源頼義の娘と結婚させた上で養子にして清原氏を相続させようとしていたから、清衡の相続も問題はないのだろう(もっとも清原氏のこの血統への執着のなさは理解しがたい。私は成衡の養子入りは清衡の相続の不当性を弱めるための創作ではないかと疑っているが、清衡の相続の不当性を示す証拠がないのでここは通説に従う)。
貢納の未納は横領に等しいが、義家は戦争をしていたのだから仕方がないといえる。戦争をしている間、義家には朝廷からの戦費をもらうことはできずまた戦後も戦費は支払われなかった。戦争は金がかかるのである。
貢納の未納分は支払ったとも完済したとの情報もないので、結局は義家は返済を免除されたのだと思う。白河法皇は源氏武士団を破産させるつもりはなかった。しかしこの後が問題なのである。

嘉承元年(1106年)に義家は死ぬが、義家の生前に嫡子の義親は九州で略奪を行って官吏を殺害したため、隠岐島流しにされていた。
この義親が義家の死後、出雲に渡って目代を殺害し官物を奪ったため、白河法皇平清盛の祖父の平正盛に命じて義親を追討させた。
ここからの白河法皇の謀略がすごい。
この後義親を名乗る者がこの後20年も各地に現れることになる。「義親」が現れるたびに朝廷は「義親」を捕らえたが、「源氏は怖い」とするための白河法皇の印象操作である。
そして、平氏の躍進の原因はここにあるのである。
それまでさしたる武功のなかった正盛が義親を本当に討ったのかについては、当時から疑問視されていた。
正盛は本当に義親を討ったのだろう。しかしその後「義親」が各地に出没したため、生前正盛はさほど出世できなかった。
その分、子の忠盛の代に平氏は躍進する。
それだけではない。
忠盛には側室が生んだ長子がいた。平清盛である。
白河法皇は清盛12歳の時に、従五位下左兵衛佐に任官させる。武士の子は三等官の尉からの任官が通例なのに、清盛は二等官の佐から任官している。このため「親王に等しい待遇」とまで言われた。
そして清盛が「白河法皇落胤」だという噂を流し、庶子の清盛を嫡男にさせた。清盛の継母の池禅尼をたまに「忠盛の後妻」と紹介している本があるが、前妻も後妻もなく池禅尼は忠盛の正室である。
白河法皇落胤」という噂から、清盛の生母を白河法皇の寵妃の祇園女御とする説があるが、清盛の生母は、清盛を「白河法皇落胤」とするために消されたのである。天皇の子でも生まない限り、女性の実名が伝わらないような当時の風潮だから可能なことだった。
白河法皇がこのようにしたのは、平氏を源氏に対抗する勢力にするためである。
白河法皇の謀略はこれだけではない。
寛治5年(1091年)に義家の郎党と次弟義綱の郎党が所領争いを起こし、義家と義綱が兵を構える事件が起きた。
朝廷はこの争いを利用し、寛治7年(1093年)に義綱は陸奥守となり、翌嘉保元年(1094年)従四位上となって官位は兄と並び、さらに翌嘉保2年(1095年)には陸奥守より格の高い美濃守になる。言うまでもなく、義家への面当てである。 
義家の死後、家督は三男の義忠が継いだが、天仁2年(1109年)、義忠は郎党に暗殺される。しかし義綱の子の義明が義忠暗殺の黒幕との嫌疑がかかり、義明は検非違使に追捕され殺害される。
憤慨した義綱は東国へ出奔し、義親の子為義(義家の四男とする説もある)が義綱を追捕した。義綱の子達は次々と自害し、義綱は出家して降伏した上佐渡に流された。
また『尊卑分脈』では、義忠暗殺の真の黒幕は義家の三弟の義光であったとされる。
なんともすさまじいが、こうして源氏同士が疑心暗鬼になり、この後も源氏同士でしばしば争うようになる(もっとも私は、義光が義忠暗殺の黒幕だとは思っていない。また近いうちに書くだろうが、義光、義家の四男の義国(新田、足利氏祖。為義が義家の子でなかった場合は四男)が所領争いを起こしており、源氏の団結が乱れていたのは確かである)。

しかしこうして白河法皇は源氏を分裂させて弱体化させたが、だからこそ鎌倉幕府が起こったのである。
白河法皇の源氏への仕打ちを、源氏に仕える武士達は、口には出さずとも白い目で見ていただろう。
郎党が争いに巻き込まれれば、棟梁は郎党を助けなければならない。しかし朝廷が、郎党を助けに行った棟梁の梯子を外すような真似をしては、武士達が朝廷は頼みにならないと思うのも無理はないだろう。
「朝廷から恩賞をもらえなかった義家が、私財をなげうって武士に恩賞を与えた」ことに武士達が感動したというのが、武士達のせめてもの抗議だった。しかし白河法皇は、平氏政権の原因を作っただけでなく、鎌倉幕府の遠因も作ったのである。

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