嘉智子の人生にはいくつかの特徴がある。ひとつは嘉智子が絶世の麗人であったこと。
もうひとつは夫の嵯峨天皇が稀代の漁色家で、子供が50人いたという。この子作りの記録に並ぶもっては、日本では他に徳川家斉しかいない。
みっつ目は、藤原氏と組んで権謀術数に駆使し、皇統を自らの子孫に伝えたことである。つまり承和の変で淳和天皇の皇子恒貞親王を廃太子にしたことである。
4つ目は、晩年禅宗に帰依したことである。栄西が臨済宗を開く300年前のことである。
嘉智子を考えることは、夫の嵯峨天皇を考えるということでもある。
徳川家斉の妻妾なら、願うこともささやかなものだったろうが、男尊女卑がそれほど厳しくない平安時代においては、嵯峨天皇はお気に入りの嘉智子の頼みをよく聞く夫だったようである。
というのは、嵯峨天皇は嘉智子の子を除いて、23人の皇子うち17人を源氏として臣籍降下させているからである。皇室の財政難という問題もあったのだが、嘉智子への配慮という面もあったようである。
それでいて、嵯峨天皇は父の桓武天皇とは違って、決して一直線には物事を進めない人物だった。
嵯峨天皇には、高津内親王という異母妹の妃がいたが、高津内親王は妃を廃されている。
嵯峨天皇が平城天皇の皇太弟となったのは桓武天皇の意向だが、その理由は高津内親王を妃としていたからであった。その狙いは皇室の結びつきを強くして権力を強化することにあったのだが、嵯峨天皇はそれを受け入れてなお、皇室の権力強化を画策している。
嵯峨天皇は自分の後を弟の淳和天皇に継がせ、さらにその後を自分と嘉智子の間の子の仁明天皇に継がせている。そして仁明の皇太子を、淳和の子の恒貞親王にした。
恒貞親王は、同じく自分と嘉智子の間に生まれた正子内親王と淳和天皇の間に生まれた子である。つまり伯父と姪の結婚で、皇室の結びつきを強める措置だった。
政治というものは、「こうでなければだめだ」と一直線に進むより、「どっちに転んでもいい」とした方がうまく進むことが多い。嵯峨天皇はそういうタイプの政治家だった。
漁色家でありすぎた夫を持って、嘉智子は最初、嵯峨天皇のことがわからなかっただろう。そして夫に埋められない心の隙間を埋めるために、権力を求めたのだろう。
しかし自分を見失っていない限り、いつかは嵯峨天皇という人物が見えてくる。
嵯峨天皇は、嘉智子が自分の孫の道康親王(文徳天皇)を天皇にするために、恒貞親王を廃しようと画策することも当然予測していただろう。
しかし嵯峨天皇はそれを止めなかった。嘉智子が恒貞親王を廃しても、自分の孫が天皇になる。しかしその流れに、皇室の権力強化の道はない。それは子孫に残すものが減るということである。
嵯峨天皇は、嘉智子がそのことを理解するのを待ち、また晩年にはそれを理解したのではないかと思う。
嘉智子が冬嗣、良房を引き立てたことにより、藤原摂関政治が花を開き、皇室を支えるべき律令制は摂関政治によって解体されていくのである。いわば嘉智子が、皇室の衰退を招いたのであった。
嘉智子は空海と同時代人で、嘉智子が嵯峨天皇の後宮の第一人者になる頃に、空海が唐から帰ってきている。
嘉智子も当初は、空海に深く帰依したことだろう。そしてその教えの通り欲望を全肯定し、政治闘争という自らの行為を正当化しただろう。
その嘉智子が、晩年禅宗に関心を抱き、唐の禅僧義空を招いて、禅宗の尼寺の檀林寺を建立する。このため嘉智子は檀林皇后と呼ばれる。
檀林寺は広大な寺域を持つ寺院だったが、嘉智子が生きた平安初期には禅宗は流行らず、一条天皇の時代には檀林寺は廃寺になった。義空も数年で唐に帰国したという。
禅宗はこの世の不条理を理解した上で、自力本願で悟りに至る道である。
空海の欲望肯定の思想が律令国家を解体し、末法思想と浄土教の流行の果てでなければ、禅宗が流行する土壌は培われなかったのである。
嘉智子は死に望んで、この世は諸行無常であり、永遠なるものはひとつもないことを世に示し、人々に菩提心を起こさせようと、自らの遺体を帷子辻に捨てるように遺言した。
捨てられた嘉智子の遺体は腐り、鳥獣の餌になった。人々はその姿を見て世の無常を感じたという。
老齢で容色も衰えていただろうが、絶世の麗人と言われた嘉智子が、そのように葬られたことは非常に凄惨な話である。禅宗に帰依した嘉智子らしく、その心境が諸行無常の境地に達していただろうと感じられる逸話である。
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