九条兼実は久安5年(1149年)生まれで、源頼朝より2歳年下である。五摂家のひとつ九条家、つまり摂関家の生まれだった。
兼実が8歳の時に保元の乱が起こり、
初めて政権を作った藤原頼長 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で述べた悪左府藤原頼長が討たれることで、摂関家領のうち頼長の所領は院に没収された。
平治の乱で源氏が滅ぼされ、平家が京における軍閥としての地位が高まることで、平氏政権が成立する。
兼実の兄、近衛基実が薨去すると、平清盛は、自分の娘が基実の妻であるのをいいことに、基実の子の近衛基通が成人するまで、摂関家領は清盛の娘の盛子が預かるとした。摂関家領は仕掛け実質、清盛の管理下に入ることになる。
このような時代に育った兼実は、もはや広大な荘園を背景に、摂関政治により強大な権力を振るうのは不可能になった。しかしそんな摂関家の一員である兼実にも、強みはあった。蓄積した有職故実の集積を用い、儀礼政治を行うことである。
存在自体が有職故実の集積のような兼実の一番の批判は、後白河法皇の院政に集中した。
本来、律令政治では、天皇は関白や太政官による制約を受けるが、このようなフィルターを通して行われた政治には、まだそれなりの公正さがあった。
しかし院政はそのようなフィルターがなく、上皇、法皇が思った通りにできる。おかげで天皇家の力は一時的には強まったが、上皇、法皇のお気に入りの寵臣が重用され、不公平の感は免れなかった。また平氏政権なども院政から生まれたのであり、根本的に院政が日本の秩序を乱すものと見なしていた。
例えば嘉応の強訴の時は、延暦寺の大衆(僧兵)が藤原成親の配流を求めた。
後白河法皇はあくまで要求を認めないという姿勢を取ったが、大衆は内裏にまで乱入し、後白河法皇は要求を呑んだ。この時兼実は、院が比叡山の大衆に屈したことを「朝政に似ぬ」と厳しく批判している。
さらにこの後、特に落ち度があった訳ではない平時忠(清盛の義兄)と平信範を「奏事不実(奏上に事実でない点があった)」として解官、配流とし、さらに配流となっていた成親が京に戻ってきて、時忠の後任として検非違使別当になる。この強引で無道な人事を、兼実は「天魔の所為なり」「世以て耳目を驚かす。未曾有なり」と驚愕、憤慨している。
兼実の後白河法皇に対する態度は常にこんな調子で、後白河法皇の行動で非難しないものはないと言っていいくらいだった。しかしこうも徹底して批判すると、「批判のための批判」だという感も否めなかった。後白河法皇は武力を持たず、それでいて法皇の権威によって主導権を握ろうとするから混乱する。しかしそれを批判する兼実も、武力どころか実質的な権力も持っていない。
対策を立てることもできないのに、先例に基づいて非難するだけでは、建設的な態度とは言えない。
やがて、兼実の子の良経は、一条能保の娘を妻とする。
一条能保の妻は、源頼朝の同母妹の坊門姫である。ここに兼実は、頼朝との縁ができたことになる。
頼朝は、後白河法皇が義経に、頼朝追討の院宣を与えると、暗に後白河法皇を指して「日本一の大天狗」と呼んだ。
そして頼朝は、兼実を内覧に推薦した。天皇と血縁関係がない場合、内覧と関白の権能は同じである。
奥州藤原氏を滅ぼし、名実共に日本最大の勢力となった頼朝は、建久元年(1190年)、平治の乱で伊豆に流されて以来、初めて上洛する。
頼朝は権大納言、右近衛大将となるが、右近衛大将もわずか13日で頼朝は辞任する。
この頼朝の上洛の時に、兼実は初めて頼朝と対面する。
天下はいずれ立て直すことができるでしょう。当今(今の天皇)は幼年ですし、あなたも余算なお遥かです。
今のところは法皇に任せ奉るほかはありませんので、万事思うようにはいきません。
と頼朝は、後白河法皇が国政の混乱の元凶であるかのように語り、また天皇も親政が望ましく、院政は正統な政権ではないかのように、兼実に語っている。
もし院政がなかったなら、頼朝のような人物の台頭は、少なくとも大幅に遅れていたのだが、頼朝はそのようなことには触れない。しかしこうして頼朝は、院政が不当なものだという世論を形成していった。そして兼実も、日本の統治には武力を背景としなければならないことを理解し、頼朝に賛同した。
後白河法皇が崩御すると、兼実は頼朝を征夷大将軍に推挙し、名実共に鎌倉幕府が誕生した。
九条兼実は、実権を持たなくなってきれいごとを並べながらも、武家政権に追従するだけの貴族のはしりである。
有職故実に通じ、もっともらしいことを語ってはいるが、
公家に評判が良かった北条泰時と「道理」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で述べた北条泰時のように「道理」も持っていない。兼実が泰時を前にすれば、無条件に称賛するしかなかっただろう。
南北朝時代の北畠親房は、その著『神皇正統記』で承久の乱について、「臣下が上を討つのは最大の非道であり、最終的には皇威に服すべきである」としながらも、「陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討つのは、後鳥羽に落ち度がある」と述べている。
「実朝が死んだからといって鎌倉幕府を倒そうとするならば、彼らに勝る善政がなければならない」ともっともらしいことを言っているが、なら承久の乱の後の泰時の「道理」は貴族にあったのか?泰時が「道理」を提唱してなお、貴族はそれ以上の善政ができたのか?
鎌倉幕府の成立により、貴族は「自分達は何者なのか?」という問題に直面した。そして自分達の存在意義を有職故実に求め学問に励みながら、「道理」によって不公平のない世を作ろうとせず、アイデンティティを喪失したまま、貴族は江戸時代まで生きていくのである。
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