司馬遼太郎は、薩摩藩を゙「閉鎖的な国風を持ち、江戸体制のなかにあっても奇蹟的に鎌倉風の武士気質を温存していた」と『花神』で述べている。
確かに、長州が思想で動いたのに対し、薩摩は西郷隆盛を中心として、政略で動いた。
薩摩に思想などというものはなかったと言っていい。
「鎌倉風の武士気質」というのは、江戸時代になって流行した朱子学が、薩摩武士の行動原理になっていないということである。
そもそも朱子学が流行したのは、豊臣秀吉によって天下が統一され、世の中が泰平になったことによる。
そもそも日本の歴史は、藤原摂関政治が古代律令国家を破壊することで権門勢家の世になり、平氏政権、鎌倉幕府が誕生した。つまり平氏政権、鎌倉幕府、室町幕府は「反律令」体制である。「切り取り強盗武士のならい」という武士は、自らを正しく生きていないと規定し、日本の中に一種の無法地帯を作ったのが武家政権だった。
しかし豊臣政権は違う。秀吉が関白に就任することで、律令体制への回帰を志向する政権であった。
秀吉は寛容で、敵対した大名も許した。そうすることで、元反律令の大名達に対し、秀吉の作る新国家、豊臣政権の敷居を低くした。
しかし最初こそ諸大名を緩く受け入れても、秀吉は次第にハードルを引き上げていく。全国的に検地を進め、織田信雄をはじめ、佐々成政、大友義統、小早川秀秋、蒲生秀行といった大藩を改易、または大幅減封していく。その様は後の江戸幕府による大名取り潰しよりも凄まじく、豊臣政権は中央集権化したのである。
豊臣政権の成立により、本来自らを正しくないものと規定していた武士は、律令的な中央集権に組み込まれることで、正しさに目覚めた。この正しさへの目覚めが、江戸期の朱子学の流行に繋がる。
薩摩人が「鎌倉以来の武士気質」を持っているというのは、朱子学的でなく、反律令的で、自らを正しくないものと規定しているということである。
しかし、島津家は豊臣秀吉の九州征伐で散々に叩かれているはずである。その島津が、秀吉が作り上げた律令的な正しさに逆らえるのは元来おかしいのである。
しかし島津は、関ケ原では西軍について負け、薩摩、大隅、日向で徹底抗戦の構えを見せて、とうとう家康に本領安堵を認めさせてしまった。
関ケ原では、他の大名は抵抗などしなかった。毛利も上杉も宇喜多も長宗我部も、改易になろうが城を枕に討死するようなことはせず、唯々諾々と処置に従ったのである。これが秀吉以降の武士の姿で、権力に善悪の判断基準を突きつけられ悪と認定されると実にしおらしくなり、何の抵抗もできなくなってしまうのである。
島津だけが違った。なぜだろう?
ここで、関ケ原の戦いについて考えてみよう。
関ケ原の戦いが何だったのかといえば、諸大名の立場からいえば、五大老の権力争いである。
もっと平たくいえば、五大老の私鬪である。昔八幡太郎義家が後三年の役で藤原清衡に味方して戦った時、白河法皇が「この争いは清原氏の私鬪である(藤原清衡は当時清原氏の養子だった)」と言ったために恩賞をもらえなかったという、あの私鬪と同じものと認識されていたと考えればいい。
五大老は徳川家康、上杉景勝、宇喜多秀家、毛利輝元、前田利家である。このうち前田利家は死んでいる。そして家康は、五大老のうちの三人を相手にしている。
関ケ原では、毛利は南宮山上にあって動かなかったが、もし動いていたら、家康はやばかった。宇喜多秀家は56万石の大名で、五大老でも家康とは比べものにならないが、毛利は120万石の大大名である。輝元の動き次第では、諸大名は東軍、西軍のどちらにつくかわからなかった。しかし家康は毛利を調略していた。
関ケ原の後も、家康は輝元に大坂城を明け渡すように交渉し、輝元は応じた。そして家康は大坂城に入り、五大老筆頭として論功行賞を行ったのである。
この時点で、諸大名は家康に逆らえなくなった。諸大名は家康を次の天下人と見ていたが、それ以前に五大老筆頭として、豊臣政権を執政するのが家康である。改易を告げられようと逆らえるものではなかった。
家康に抵抗した大名は、二人だけだった。佐竹義宣と島津義弘である。
佐竹義宣は西軍についたのではない。東西どちらにもつかなかったが、それでも処分まで2年かかった。
常陸という、徳川から見て目と鼻の先で、よくもここまで抵抗できたと思うが、抵抗できた理由は、佐竹氏が当時残っていた僅かな源氏の名族だったことである。家康は征夷大将軍、源氏長者となることを目指していたから、源氏の名族の佐竹氏とは穏便に済ませたかった。結局佐竹氏が秋田に転封した後、家康は征夷大将軍、源氏長者になった。
島津はこの間、薩摩、大隅、日向の三国に籠もって抗戦の姿勢を見せた。
島津の関ケ原での退陣にすてがまりというのがある。
司馬遼太郎の小説にも出てくるが、小説では最後尾の兵がその場に座り込んで鉄砲を撃って、また隊列に戻っていくというものだったが、司馬遼は甘く脚色して書いたらしい。すてがまりは生還を目的としない殿の兵で、敵と戦った後に隊列に戻ることはなかったらしい。戦後間もない時期、玉砕的な記述を書くのを司馬遼は避けたと思われる。
司馬遼はともかく、島津の壮絶な退却戦により、井伊直政や家康の四男の松平忠吉が鉄砲傷を負い、その後二人は病死する。
最近秀吉の九州征伐について調べる機会があったが、九州征伐は島津が勢いに乗って九州全土を席巻し、冬にも戦って兵糧が尽きたところを、秀吉が20万もの大軍を投入して勝利している。
家康は関ケ原の後、20万もの大軍を島津相手には動かせなかったし、国元で防衛体制を取った島津軍は、兵糧が枯渇していなかった。家康は島津を本領安堵せざるを得なかった。
江戸時代になっても、豊臣期同様、大名は改易されれば「城を枕に」という気概を持つことなく、なすすべもなくなったままだった。
その江戸期に、薩摩は国境を閉ざして、日本国内「鎖国」をした。幕府の隠密は「薩摩飛脚」として鎖国藩内に潜入したが、一人として帰ってくる者はなかった。
その薩摩から、幕末、西郷隆盛が現れる。
「やがて九州から、足利尊氏の如き者がおこってくる」と言って西南戦争を予言したのは大村益次郎だが、西郷は足利尊氏のように無私で、足利尊氏が建武の親政に逆らった正しくない者達に担がれたように、西郷も大勢の正しくない者達に担がれていた。そして西郷が敗れることで、日本では自らを正しくないと規定して、その代わりに自らの中に光を求めようとする者がいなくなった。
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