坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

争いながら自分を下位に置いてしまうこと

最近、小説『一領具足』を書き終えた。

小説を書きながら、四国を制覇した長宗我部元親が、秀吉死後の天下がどうなるかについて、何の方途も示すことなく死んだのは、豊臣政権というものに魅せられたからだという結論に達し、そのように書いた。

元親は若い頃、まだ信長が美濃を制していない頃から信長を意識し、信長が中央を制してからは、信長と外交で渡り合った。

外交の目的は、信長に四国の平定を認めさせることであったが、信長が元親の四国平定を認めないなら、転じて反織田に回るという含みを持たせ、懐に短刀を忍ばせて向き合っているような外交だった。

しかし信長が勢力を拡大するにつれ、元親は劣勢になり、ついに信長は、元親に土佐一国と阿波半国のみを安堵し、残りを召し上げると通達した。元親は拒否し、信長との外交は断絶した。

本能寺の変で、元親は九死に一生を得るが、秀吉が台頭すると、元親は今度は一貫して反秀吉に周り、秀吉の敵と手を組み、秀吉の勢力拡大を妨害するように動いた。

しかしそこまでしても、秀吉の膨張を止めることができず、秀吉の軍勢が四国に押し寄せ、元親は降伏する。

 

不思議なもので、人が何者かと敵対する場合、力の優劣では相手が上だと認めながら、単なる力の優劣でなく、立場に上下があると感じる者が多いようである。

もっとも立場に上下がないと思って戦う者もいる。石田三成真田信繁河井継之助などがそうであり、この者達は戦場で華々しく散った。

しかし多くの者は、劣勢の状態が続くと、戦っているうちに自分を相手を下位においてしまうようである。

 

多くの作家が伊達政宗を描く時、政宗の伊達家を周囲の大名と、勢力的に差はないように描き、政宗の活躍で大領土を得たように描く。

しかし伊達家は元々70万石以上あったのであり、政宗家督相続の時点で、奥州最大の勢力だった。だから伊達家の当主が望めば、政宗でなくても伊達家は奥州制覇が可能だった。

そのことは政宗の曾祖父が証明している。政宗の曾祖父の稙宗は、伊達家の軍事力と自分の子供を政略に用いることで、最上、大崎、葛西、相馬、蘆名を傘下に収めた。その勢力は、政宗の最盛期に比肩するほどのものだった。

しかし稙宗への権力の集中に家臣が反発し、嫡子の晴宗を立てて反旗を翻した。稙宗は晴宗に家督を譲って隠居し、伊達家は稙宗が一代で成した勢力を失った。

政宗は幼少の時、疱瘡で右目を失ったが、むしろそれを奇貨として、政宗が万海上人の生まれ変わりという伝説を作り、さらに伊達家中興の祖と言われる、九代政宗の名を与えた。しかしその裏にあるのは、右目を失った子を種に、伊達稙宗を再来させる試みだった。

このように考えれば、伊達政宗という人物が、いかに「作られた英雄」であるかがわかるだろう。

「万海上人の生まれ変わり」という伝説は、政宗も信じ、また他の人々も信じた。人々がそう信じたからこそ、政宗が謀反を計画し、それが露見する度にトカゲの尻尾切りをしてきたのに、また政宗を信じて謀反に加担する者が現れるのである。

その政宗も、大坂の陣で豊臣家が風前の灯となり、謀反の起こしようがなくなってきた。そこで徳川家から伊予宇和島10万石をもらうことで、天下を諦めた。

大坂夏の陣で、政宗は徳川家臣の水野家の家中と同士討ちを起こしたり、明石全登と戦っていた神保相茂の隊270人を同士討ちにして壊滅させたりしている。

この話も、敵だと思ったら味方だったのを、同士討ちとわかったら士気が落ちるからそのまま全滅させたとか、味方だとわかっていたが伊達勢の陣に神保隊が押し寄せてきたので迎え討ったなど諸説あるが、真相は、私は島津への対抗意識だと思っている。

政宗関ケ原で東軍に属しながら、同じ東軍の南部藩に和賀一揆を起こさせ、それでいて幕府からは咎めがなかった。その政宗が、西軍でありながら唯一本領を安堵された島津に対抗意識を燃やしていたのである。大名としての格も、宇和島10万石を合わせて、島津と同格の70万石級になる。

関ケ原では島津は動かず、味方が島津の陣になだれ込んでくると鉄砲を射掛けたという。政宗はその真似をしたのである。

このことは島津も意識していたようで、神保隊の壊滅事件は島津側の資料に詳しい。

これが天下を諦めた政宗の鬱屈であり、家康に政宗の強襲を恐れて、大坂城が落城したその朝に全速力で伏見へと逃げ、それを見た人々は伊達の謀反だと噂しあった。

 

政宗キリシタン禁令の日本で、領内に多くのキリシタンを保護していた。

しかし徳川の天下が固まるにつれて、政宗キリシタンを匿うことができなくなってきた。

元和9年(1623年)、政宗は領内のキリシタンを多数捕らえて改宗を迫った。

晦日に、仙台城下の広瀬川の川原に深さ20cm、広さ1m四方の穴を掘って水で満たし、信徒を巣はだかで座らせて転宗するように責めたという。正月の三が日は休んで、4日にまた水責めにして、信徒は皆凍え死んだ。

 

争いにおいて、その強弱を判断するのは大事なことである。

しかし争っているのに、争いの中で上下関係を感じてしまっては争う意味がない。争いは力の優劣によらず、対等の関係で行うものである。

思うに、人を支配しようという意志を持って争うと、負けた時に相手に支配されるようで、自由を求めて争うと、相手に支配されないようである。

 

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