坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

信長の戦い⑤~美濃攻め

美濃攻めは、従来は墨俣の一夜城によって勝敗が決したというのが定説になっていた。しかし2000年代の研究者達によって、この定説は打ち砕かれた。
それでは美濃攻めの勝敗は何によって決まったのか?
斎藤義龍斎藤道三の実子でなく、土岐頼芸の子だという噂があるが、この噂は信憑性に乏しいとされる。

斎藤義龍 - Wikipedia

義龍は一色氏を称しているが、土岐氏を名乗っていないところ、噂自体が美濃の豪族に充分に信じられていなかったことを表している。
つまり道三が土岐頼芸を追放してから、美濃は斎藤氏のものであり、義龍が土岐氏の血を引いていたから美濃の豪族が従っていたのではない。
一方、信長もまた道三から、「美濃一国の譲り状」をもらっている。道三から直接に美濃の支配権を与えられている点、信長と義龍は、美濃の支配者としての正統性はほぼ対等と見ていい。つまり美濃の豪族にとっては、支配者は義龍でも信長でもどっちでも良かったのである。
それでいて、義龍存命中は美濃が信長のものになることはなかった。それだけ義龍の統治が成功していたということだろう。美濃が崩れるのは龍興の代になってからである。
龍興は暗愚とよく言われるが、滅びた者が「愚かだったから」とはよく言われることである。若干14歳の若い当主の就任による美濃の同様の隙をついたのが、信長が美濃を征服した主因だと見るべきだろう。

そして美濃制圧さえも、「美濃一国の譲り状」による部分が大きいとすれば?
信長が京に上洛できたのは、尾張と美濃を押さえたからである。これで信長は百万石の大名になった。京に近いところで百万石の身代を持つ大名は、当時信長しかいなかった。
その後上洛し、大阪付近も抑え、さらに松永久秀を同盟者として大和も勢力圏に入れ、伊勢にも出兵して約三百万石の大大名となった。当時三百万石の大名は、他には北条しかいない。
将軍義昭を首謀者とする反信長同盟が結成されるのはこの後で、これだけの勢力を持てば、時間はかかっても反信長同盟の各勢力を各個撃破していけば、最初から信長に有利に進められる戦いである。
このように書くと、信長の戦争は平凡そのものである。
しかし信長の平凡さを知ること、これが信長の非凡さを知ることに繋がるのである。

美濃攻めの頃から、信長の軍の中での位置が変わってくる。
それまで前線で戦っていた信長が後陣に位置するようになり、後ろから采配を振るようになる。
更にしばらく後になると、信長は戦場に出ないようになる。
信長の面白さはここにある。信長が後陣に位置することで、織田軍の性質も変わってくる。
司馬遼太郎尾張兵を「東海一の弱兵」と言った。
私には「東海一の弱兵」かどうかはわからないが、美濃攻め以降の織田軍は、勝ったり負けたりという浮き沈みが多くなる。
美濃攻め以前の織田軍は、全軍火の玉のようになり、また犠牲の大きい軍だった。しかし美濃攻め以降、織田軍は犠牲という点では比較的少なくなる。そして信長は、これを良しとしたのである。

前線で戦わなくなった信長の代わりに先鋒を務めるのは、丹羽長秀である。
丹羽長秀は元々織田家の家臣ではない。斯波氏の家臣である。
長秀は猿啄城攻めの先鋒を務め、加治田城佐藤忠能を調略し、堂洞砦を河尻秀隆と共に攻めて落とす。
また木下秀吉の名前も、この時期から登場する。
墨俣の一夜城のエピソードもない中で、秀吉の目立った活躍の話はないが、信長が坪内利定に宛てた文書の副状を秀吉が出しており、谷口克広は秀吉が、坪内を指揮する権限を持っていたと推測している。
さらにこの時期に滝川一益も活躍を始める。一益は伊勢の員弁郡桑名郡を制圧する。丹羽長秀のように先鋒としてでなく、一益を大将としての制圧である。後の方面軍司令官を彷彿とさせる話である。
一方、柴田勝家佐久間信盛は、この時期冷や飯を食っている。
信長は足利義昭と連絡を取り、尾張守の官位をもらっているが、これを信長の勢力拡大の証と見るのは必ずしも正しくない。美濃攻略の最中なら美濃守の官位をもらうべきだろう。これは尾張が一枚岩になっていないのを示しているのである。
また上洛の一年後になるが、前田利家の兄の利久を隠居させ、利家に前田家の家督を継がせている。前田家は林秀貞(通勝)の与力であり、元々反信長だった秀貞の勢力を削いだのである。こういうやり方をするところ、信長は政治家としては陰湿である。

平凡で陰湿な信長の非凡なところは、美濃攻めを続けながら、組織改革を断行したことである。それだけに美濃攻めは、信長が全力を投入した戦いではなかった。
司馬遼太郎は、信長が家臣の領地に代官を送って家臣を集権的に支配していたと言っているが、別にそういうこともないようで、将軍や大名が家臣の領地に代官を送って支配するのは江戸時代になってからである。また徳川幕府のように、直轄領が極端に大きい訳でもない。
信長の織田家も他の戦国大名と同じ、体制は家臣連合であり、本来ならば盟主的立場として、信長は家臣に行動を制約されなければならなかった。
その信長が独裁権を握るのは、旧来の重臣の勢力を低下させたからである。
丹羽長秀、木下秀吉、滝川一益、そして明智光秀。彼らを抜擢したことで、柴田、佐久間の勢力は相対的に低下したのである。また新参者達は、新参であるが故に信長のみが頼りで、信長の意向に逆らうことがない。
そして信長に反抗的な態度を取れば置いて行かれると思った柴田達が、新参者と功名を競うようになっていく。
また、信長の織田家は「叛服常なし」の家臣が多いことで、信長の見る目の無さが批判されるが、美濃攻め以前は、『信長公記』に「お困りになっているときに助力する者はまれであった」と書かれるような有様だったのである。信長は協力な支配者だったが、それだけに反発が多く、信長が動かなければ何も動かなかった。また人材の流入も少なかった。
しかし多くの仲介者を持つことで、織田家に人材が流入するようになり、調略が成功するようになっていく。
組織がシステマティックに機能するなら、信長が先頭に立って、全軍火の玉になって戦わなくても、犠牲の多い戦いをしなくてもいい。数で押していけばいい。これが信長の解答だった。

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