坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

なかなか古いものがない世俗建築物と反中国の寝殿造

この間、といっても1ヶ月以上前だが、長谷堂城に行ってきた。

長谷堂城は「東北の関ヶ原」と呼ばれる、上杉景勝の家臣直江兼続最上義光の戦いが行われた場所である。

長谷堂城に建物はない。

日本には、最盛期で40000の城があったと言われ、そのほとんどの城は今は跡形もない。日本の城として残っているのは、ほとんどが江戸時代以降の、石垣と天守閣のある城郭である。

しかし近世城郭で、戦火を受けた城というのは、大坂城会津若松城五稜郭、熊本城、越後長岡城、安土城岐阜城など、数えるほどしかない。

私が子供の頃は、戦国大名は皆石垣と天守閣のある城に住み、その城を巡ってのいくさが各地で行われているものだと思っていた。

それが大河ドラマ独眼竜政宗』を観たあたりから少しずつ修整され、やがて石垣と天守閣のある城のほとんどは、戦争を経験していないということがわかっていった。

戦争ドラマのない城ばかりが残って、戦争ドラマのあった城は廃墟すらない(日本の城は木造建築のため)はけしからん!ということを書こうと思ってやめたwww。

よく考えてみると、宗教建築物は長く残っているものが多いが、世俗の建築物で古くから残っているものは少ない。

それもそのはずで、宗教建築物は宗教組織が維持の努力をするから長く残るが、世俗の建築物は権力交代が行われればそれでおしまいで、あとは朽ち果てるだけだ。我が国の法隆寺が世界最古の木造建築物なのも同じ理由だ。

石造りが主流の西洋なら、フォロ・ロマーノのような廃墟は残るけど、木造建築主体の東洋では、滅びた権力の世俗建築物は残らない。始皇帝阿房宮だって残っていないし、天皇の内裏も藤原氏の邸宅も残っていない。平安神宮は内裏を模して明治後に建てたものだ。

現存する西洋で一番古い世俗建築は、クロアチアスプリトにあるディオクレティアヌス宮殿だろうか?東洋ではそんなに古いものはないだろうと思っていたら、黄鶴楼というのがあった。

黄鶴楼


うん、中華料理屋かキャバクラを経営したら流行りそうだねwww。それにしても屋根の先端が上を向いているのは、我々日本人の感覚からいえば、程度によっては品がないね。

岳陽楼


黄鶴楼は元は三国時代、呉の孫権が軍事用の物見櫓として建てたが、その後観光地として親しまれて残ったらしい。古い建築物としては珍しい例だろう。もっとも黄鶴楼は何度か建て替えられており。元の場所からも離れて建てられている。

 

そんなことを考えている時に、脱線的に日本の建築物について考えることがあった。

考えたのは、寝殿造についてである。

菅原道真の献言により遣唐使が廃止されて国風文化が発展し、寝殿造もその文化の一部になるのだが、これに関してはもうはっちゃけてるとしかいいようがない。

屋根は瓦葺きをやめて檜皮葺にする。檜皮葺というのは檜の木の皮のことだが、それで茅葺き屋根と違う、独特の色合いになる訳だ。

土間をやめて板敷き(フローリング)にし、履物を脱いで屋内に入る。丹土塗りを止めて白木造りにする。ここまではいい。

問題は、寝殿造には壁が一切ないことである。

壁の代わりに蔀や遣戸がある。蔀とは格子上の間仕切りで、板を貼っているから風除けにはなる。遣戸とは襖である。もっとも後世の板に紙を貼って絵を書いたものではない。遣戸に横に桟をつけたものを舞良戸といい、遣戸の装飾的なものはこの舞良戸くらいである。

蔀も遣戸も、壁でないから取り外し可能である。大変風通しが良い、というより隙間風がよく入ってくる。

そして屋内にも壁がない。中は御簾や几帳や屏風などで間仕切りをする。プライバシーが心配になりそうな造りである。

このような寝殿造だが、建物は柱だけでなく、壁も建物を補強しているのである。そんな建物は傷みが早いのではないかと思ってしまう。伊勢神宮も20年ごとに式年遷宮をしているから、寝殿造もそんな感覚で建てていたのかもしれない。

冗談として考えたことでは、風の強い日に屋根ごと建物が吹っ飛んだのではないかということである。もっともそんな記録はないようだし、檜皮葺も雨が降れば、水を吸って瓦のように重くなるだろうと考え直した。

しかもそれでは寒すぎると思ったのか、塗籠といって、屋内に人が寝れるくらいの、三方を壁で囲まれた区域を作ったのである。そんなことなら壁で間仕切りしとけと言いたくなってしまう。

 

しかし、最近桓武天皇の、平城京から長岡京平安京への移転を調べていて、思い直したことがある。

 

「青丹よし 奈良の都は咲く花の 匂うがごとく 今盛りなり」

 

と『万葉集』で詠まれたように、平城京は青丹で塗られた都だった。

青丹とは青色のことではない。黄土色である。中国の昔の建物でよく見る色である。

大雁塔


こんな色ね。

中国の風景といえば、この黄土色の建物だった。しかも中国文明の中心は黄土地帯だから、中国は黄色一色なのである。

その風景も、日本人は文明の象徴として憧れた。

しかし遣唐使をやめて国風文化になって、その反動がきた。平安時代の人々は反中国であり、壁さえも中国だった。だから壁を作ることをしなかった。

ちなみに漆喰の技術は古くからあったが、平安時代の人は漆喰でも壁を作ろうとはしなかった。壁が中国であり、文明であり、その固定観念から抜け出すことはなかった。

それが時代を経るにつれて、壁を作り漆喰を塗り、襖や障子を使って居住環境を整えるようにし、室町時代には現代の日本建築になる。そして安土桃山時代にはキンキラキンになるwww。

 

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