坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

正しさのために死刑にする、死刑を廃止して正しさを求めない、死刑に正しさを求めない

最近歴史小説をよく書いているが、歴史というのは「正しくあろうとする運動」だとつくづく思う。
もっともわかりやすいのが『三国志』の曹操で、曹操は皇帝とならずに魏王に留まっただけで悪人とされた。曹操の死後、子の曹丕がすぐに漢王朝を簒奪したが、曹丕が簒奪者として悪く言われることはなかった。曹操曹丕の違いは皇帝になったかならなかったかだけである。
世界のどの歴史でも、君主が交代すればそのたびに相続争いがあり、相続争いのたびに誰かが殺される。
ジェーン・グレイというイギリスの女王がいる。
有名な人物ではない。歴史に詳しい人でも、ジェーン・グレイの存在は知らない人が多いだろう。なぜなら9日間しか女王の座にいなかったのだから。
時はチューダー朝の時代、王妃との離婚のために英国国教会を設立したので有名なヘンリー8世の子エドワード6世が死去すると、カトリック教徒だった王位継承候補のメアリーの即位に疑義がつけられ、ヘンリー8世の妹の孫のジェーンがエドワードの後の王位継承者となった。しかしメアリーは逃亡先で即位を宣言しジェーンは逮捕され処刑された。処刑された時、ジェーンはわずか16歳だった。

こんな血生臭い話は歴史の至るところにある。
貴族とは何のためいるのかといえば、政争に敗れた時に死ぬためにいるといっても過言ではない。そのために権力と贅沢を許されていると。

日本の歴史では、正しくあるという視点から見て3つの姿勢がある。
ひとつは奈良時代律令国家や明治時代のような、国を守るために中央集権を目指した時代で、奈良時代の政争では必ず誰かが処刑された。
しかし日本はこういう時代が長く続かないようで、平安時代になると死刑が行われなくなる。政争は奈良時代に劣らず頻繁に行われるが、だんだんと処分の理由は曖昧になっていって、安和の変源高明左大臣という高位で謀反に関係あるとされながら、主犯ではないという微妙な扱いをされて、太宰員外帥となった。そして数年後には許されて帰京している。
今昔物語集』には源高明の左遷に関する話があって、高明が桃園の館にいた時、柱の節穴から小児の手が出てしきりに指し招く怪異が、あり、経典や仏画を掛けても怪異は収まらなかった。そこで征矢を節穴に刺したところようやく怪異は止んだが、やがて左遷の禍が起きたという。
この物語の意味は、安和の変は謀反のでっち上げですらない単なる左遷人事だということである。
中国ではこうはいかない。
春秋戦国時代伍子胥は、楚の平王に父と兄を処刑され、呉に仕えて楚を破り、平王の墓を暴いて遺体を300回鞭打ったという。単なる復讐のためではなく、自らを正しかったとするためには、中国人はそこまでするのである。
日本では戦後になって戦前の中央集権志向が緩んだ。軍備を最小限にする吉田ドクトリンがいい例だが、革新派を中心に死刑廃止派が強くなる。今は死刑存置派が多数派だが、私が学生の頃は死刑廃止派と死刑存置派は拮抗していたと思う。しかし改憲派の勢いが強くなると共に、死刑廃止派は力を失っていった。
戦後死刑廃止派は長い間相当の力を持っていたが、その運動の方法が法務大臣になって死刑執行の命令書に署名しないなど、やり方がよくなかった。こういう手続きを歪めるやり方というのが日本にはよくあって、時の政権なんかもよくこの手を使っている。

世界的な自らの正しさの証明のために敵対した者を殺す世界的な流れと、日本の平安貴族的な死刑を忌避する精神の他に、日本の武士の死刑に対する独特な精神がある。
日本の武士は自らを「正しくない者」と規定していた。何に対し「正しくない」かといえば、貴族に対し「正しくない」のが武士である。つまり武士は平安貴族のように死刑を忌避するのが「正しい」と思っていたのであって、武士が政敵を処刑するのは、平清盛が頼朝や義経に情けをかけたために平家が滅ぼされたように、敵の一族を根絶やしにせねば自らが滅ぼされるというリアリズムからで、原則死刑の善悪を論じなかった。
徳川家康が豊臣家を滅ぼしたのは、「君臣豊楽」「国家安康」というとんでもない言いがかりで、家康は福島正則以外の全ての大名に参陣を命じて豊臣家を滅ぼした。集団によるいじめである。豊臣家を滅ぼすことに、あまりにも正しさを見出だすことができなかったから徹底して悪をやってのけたのが大坂の陣だったのである。

敵を滅ぼして自らの「正しさ」を証明する、死刑も正しさも求めない、死刑そのものに「正しさ」を求めない。全て一長一短がある。
しかしそろそろ、手続きを歪めるやり方だけは卒業したいものである。

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