坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

中国の中央集権国家の出現により、道家はその思想を桃源郷に追いやった

桃源郷というユートピアは、陶淵明の『桃花源記』という詩が出処である。

晋の太元年間(376年〜396年)に、武陵(現在の湖北省湖南省貴州省広西チワン族自治区を含む郡)出身の人が魚を捕らえるのを生業としていた。

ある日、船で谷川に沿って行くうち、どのくらいの距離を来たのかわからなくなった。

すると両岸に桃の花が咲いている林があった。林には桃の木しかなく、漁師は不思議に思い、どこまで続くか確かめようと思った。

林は川の水源で終わり、そこには山があり、山には穴があって、そこから光が指していた。

穴に入って数十歩行くと、突然開けた場所に出、そこには建物が並び、良い田畑があり、老人や子供も皆楽しんでいる。

村人達は漁師にどこから来たか尋ね、家に招待して酒を用意し、鶏を殺して食事を作った。村人達は皆漁師に挨拶をしに来た。

村人達は、「自分達は秦の始皇帝が死んだ後の世の乱れを避けて、この世間から隔絶された場所にやってきて、二度とここから出なかった。今はなんという時代ですか?」と尋ね、漢や魏や晋のことを知らない。

漁師は自分の知っていることを説明し、村人も漁師をそれぞれの家に連れて行って歓待した。

漁師は数日滞在して辞去した。村人達は「この村のことは外界の人には話さないでください」と言った。

漁師は元来た道を辿って帰り、あちこちに目印をつけておいた。

その後漁師は郡の役所に行き太守に謁見し、その村のことを話した。

太守はすぐに人を派遣して漁師について行かせた。漁師は目印を探したが道に迷い、二度と道を見つけられなかった。

南陽の劉子驥は志の高い人で、話を聞いて是非その村に行こうと思ったが、実行する前に病気で死んでしまった。そして漁師が桃源郷は入る前に船を止めたわたし場には、とうとう足を踏み入れる者はいなかった。

中国の老子に始まる道家の思想の根本は「無為自然」だが、「無為自然」の思想は「小国寡民」を前提としている。

老子は紀元前6世紀の人と言われる。時は春秋戦国時代で、中国は多くの国に分立しており、ひとつひとつの国も小さく、「小国寡民」は説得力のある思想だった。

秦の始皇帝が中国を統一し、漢になって郡国制が敷かれると、4代文帝のように道家的な手法で国を治める人物もいた。しかし7代武帝の時に漢が中央集権国家になると、道家は影を潜めるようになる。

この道家三国時代から竹林の七賢によって復活するのだが、439年に北魏華北を統一し、485年に均田制を施行する。

中国が土地制度において中央集権国家への道を歩み出すと、「小国寡民」を思想の前提とする道家はまた影を潜め、当時成立しつつあった道教と一体化する。

 

道家の人間の目指すところは、仏教の目指すところと基本的には同じである。しかし仏教が基本、その時その時の社会を肯定するの゙に対し、道家はその発生当時の社会状況を維持するように説いた。

「父、母、叔父伯父、叔母、伯母の仲の悪い時に限って、孝行や慈悲がもてはやされる」

「国家が混乱し、君主の意見に雷同する臣下がはびこっている時に限って、率直に君主を諌める貞臣が認識される」

という道家はペシミスティックで、反知性主義をその思想に内包していた。

道家の思想は、中央集権国家が現れると危険である。

道家の思想が中央集権体制によって実現したのがポル・ポトクメール・ルージュで、子供を親から引き離し、眼鏡を知識人の象徴として、眼鏡をかけていれば殺害された。クメール・ルージュは、西洋思想を媒介として道家の思想が共産主義政権の元で、隔世遺伝的に現れたものである。

道家の思想家達は、道家の思想と中央集権国家が結びつくべきではないことをよく知っていた。

陶淵明は365年〜427年の人で、華北でなく江南の人である。

しかし陶淵明は、中央集権国家の足音が聞こえてくると、『桃花源記』によって、道家の思想を桃源郷という、決して辿りつけない理想郷に封印した。

そして道家の祖の老子は、道教では不老長寿の道を説く仙人となった。

そして隋、唐という統一王朝の時代になり、特に唐の時代、帝室の李氏は本当は北方遊牧民族の出身ながら、老子の子孫を称する(老子は姓名を李耳という)ようになり、道教が隆盛する。一方で均田制が全国的に実施されるなど、中央集権でありながら道教的な軽さのある社会になる。

 

実は、均田制の元となった屯田制を始めた曹操と、以上のことは関係がある。

何もできないという時の苦悩 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、曹操が帝位に就けば蜀漢劉備と終わることのない争いになるから、曹操は帝位に就かなかった。

曹操の死後、曹丕はすぐに献帝から禅譲を受けていることから、曹操が死ねば漢王朝を簒奪するのは既定路線だったとわかる。ならば曹操が長生きをすれば、その分蜀との対立は避けられる訳だ。

曹操と関係する人物の中に、方士の左慈と名医の華佗がいる。

方士は不老長寿の道を求める者達で、始皇帝に不老長寿の薬を求めさせた徐福が有名である。この後方士は、道教の成立と共に道教に取り込まれていく。道家の祖の老子の役割が、不老長寿の道を説くことに変化したからだ。

それだけに、方士と曹操接触は困るのである。それは中央集権国家と道家の思想を融合させ、ポル・ポトを生み出しかねなかったからである。

 

曹操左慈華佗によって長生きしたかったのである。

三国志』では左慈は様々な幻術で曹操を翻弄し、華佗を用いず、華佗が妻。病気だと嘘をついたのを怒って拷問で殺したとなっており、単に方士にでなく長寿に縁がなかっという風にされてしまった。

このように、曹操道家道教は縁のないものとされたが、しかし黄土地帯の農業生産力が減少して、人口が減るという問題に対して、曹操道家道教は問題意識を共有していたのである。

 

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