坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「アナと雪の女王」の主題歌、松たか子の歌詞が陳腐過ぎる!!

f:id:sakamotoakirax:20140526002353j:plain映画『アナと雪の女王』の主題歌『let it go』の松たか子のカヴァー、歌詞が陳腐過ぎる!!歌詞が陳腐だというのは、全部使い古された言葉だからである。私は最近の曲はよくわからないが、何のひねりもなく、使い古された言葉の羅列された歌が売れているように感じられる。なぜ人は、そんなつまらない曲ばかり求めるのだろう?

『Let it go』のオリジナル、イディナ・メンゼルの歌詞と比べてみよう。まずは松たか子Ver.
http://m.youtube.com/watch?v=AoUxjQOQW7A
次にオリジナル。
http://m.youtube.com/watch?v=V9JJyztJLLA
仔細に見ると、ずいぶん違う。
「戸惑い 傷つき 誰にも打ち明けずに 悩んでた それももう やめよう」
エルサは逃げて、ノースマウンテンに閉じ籠ろうとしている。「悩みを人に打ち明ける」という話の流れではない。原曲も「秘密を悟られないで いつも 素直な娘で 感情を抑えて 隠さなければ でも知られてしまった」となっている。その後「もう気にしない どう言われようとも」「嵐よ 吹き荒れるがいい」「遠くから見ると まるで砂粒みたいね」「善悪やルールに縛られずに」と、過激な言葉が続く。そう、エルサは世間と対立しているのだ。
そもそも、自己を抑圧された者が自己を開放する場合、理解者より弾圧する者の方が多い。理解者が一人もいないこともある。だからこそ、抑圧からの開放は周囲との対立なのだ。このは数千年の間繰り返してきたテーマに対し、今更「周囲との協調こそが自己の開放に繋がる」などという新法則が発見されたわけでもない。
しかし松たか子Ver.の歌詞は、周囲との対立の要素をことごとく骨抜きにしていく。
「自分を信じて」「自分を好きになって」など、陳腐過ぎて歯が浮く。この歌詞の部分は、エルサがティアラを放り投げ、ドレスアップするシーンである。松たか子Ver.では、このシーンの意味がわからない。原曲には、「良い娘はもういない」というフレーズがあるが、このシーンはまさに、親との対立を表しているのである。
親との対立は、確かにこの映画のメインテーマではない。しかし事情はどうあれ、エルサを部屋に閉じ込めたのは親である。成人するまで周囲との接触を絶った親に、エルサは怒りをぶつけずにはいられない。ティアラを放り投げるのは、王位の放棄を表しているが、同時に親との断絶を表してもいる。エルサが髪を下ろし、ドレスアップするのは、「良い娘」の放棄である。「悪い娘」だから、エルサの衣装は官能的なのである。
松たか子Ver.はこの点を骨抜きにするから、エルサが朝日に挑戦的な視線を投げて、その後勢いよく扉を閉める意味はさらにわからなくなる。それで
「少しも寒くないわ」
ってあんた、「雪の女王」が寒がるわけないでしょーが!!
もちろん同様のフレーズは原曲にもあるが、原曲の「寒さ」は周囲との対立を表していることは「雪の女王」が敢えて寒さについて語ることで、明瞭にわかるようになっている。

しかし思うのだが、「自己の開放、自己実現が周囲との協調の中にこそある」というような虚構を、人々が批判もせずに受け入れていくのは、人々が自己実現に向かって努力していないからではないか?周囲との協調に向かうのは、抑圧された自己があるのを否定するためではないだろうか。就職にあたり、「最初に入った会社で一生働いていきたい」とアンケートで答える若者は、年々増えている。なるほど彼等にとって、自己実現は目的ではないだろう。
私は、九十年代の音楽を、若い頃によく聴いてきた。ザ・ブリリアントグリーンの『There will be love there~愛のある場所』に、こんなフレーズがある。
「ここにある秘密に 罪悪感を背負って 生きていた 視界の外を 見渡せば
まるで手すりさえもない 真っ暗な闇の中にある階段を 当てもなく降りていた」
http://m.youtube.com/watch?v=k79fQReO3uo
今時こんな、出口を求めて足掻き続けるような歌詞には、ほとんどお目にかかれない。そしてこのような足掻きは、一人でするものである。およそ「誰かに打ち明ける」程度で解決する悩みなど、悩みの内に入らない。
そう言えば、香山リカが毎年大学の新入生に、尾崎豊の歌を聞かせているそうだが、
「窓ガラスを割るなんて犯罪じゃないですか」
と言ったそうである。窓ガラスを割るのが犯罪なのは、前提である。その犯罪が何を意味しているのかを理解していない。
若者が悩み、自己実現に背を向けているのは問題である。しかしそれ以上に問題なのは、悩み、自己実現に背を向けながら、「これぞ自己実現だ」とすることである。これは欺瞞である。
私は今の若者が、こういう歌詞に感動しているとは思わない。これは「納得」である。しかも真実だから納得しているのではなく、真実だと思いたいから、自分を「納得」させてくれるものを求めている。しかも「納得」しきれないから、同じような内容の歌詞を消費し続ける。

敢えて、序盤のフレーズを避けて、ここまで述べてきた。
松たか子ver.の一番気に入らないフレーズ、
「風が心に囁くの このままじゃ駄目なんだと」
ーーエルサに落ち度があったというの?
エルサが魔法を制御できないのは、エルサの責任ではない。しかし松たか子ver.は、「「誰かに打ち明けない」エルサの責任にしているのである。
この箇所を聴いて、私は「ひぐらしのなく頃に」を思い出した。(ゲームはやってません。内容はマンガで知りました)
ひぐらしのなく頃に」は、同じ場所、同じ時間が何度も繰り返され、その度に異なる展開を見せるが、ある「展開」の中で、主人公が幾度目かの展開において、疑心暗鬼と妄想により、学友二人を殺したことを思い出す。主人公罪の意識に苛まれ、涙を流して後悔する。
しかし主人公は、食物の中に針を入れられ、そのために口の中を傷つけられるという幻覚を感じている。この場合、刑事的には主人公には責任能力がない。つまり無罪である。それでも自分で間違いに気付いて涙を流すのなら、感動的ではあるかもしれない。しかし以上のように、孤立したために責任能力のない者に、責任を感じさせる作品が、度々現れ、ヒットしている。となると、
ーー責任能力のない者に罪をなすりつける現実が存在するのではないか?
と思ってしまうのである。そして罪をなすりつけた者達が、「自分がは正しかった」と自分に「納得」させるために、このような作品に浸っているのではないか?