坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

『渇き。』

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初老の男の異様な汗、血にまみれたジャケットで、銃で撃たれた足を引きずりながら歩くシーン、腹を割かれ、内臓が見えている男が大声で喚く、喉を切り裂かれた男がなおも喋り、立ち、動く… 最初は、制作費用をケチっているのかと思った。上映時間は約一時間半、原作は約500ページ。500ページの小説を一時間半の映画にまとめるのは若干の無理があり、制作上の事情で映画がおかしくなったと思われても仕方ない内容である。 しかし、映画監督も俳優も一流であり、しかも賛否両論ながらも、それなりのヒットをしている。 ならばこれは、わざとやっているのだ。これが、制作の背景を踏まえた、私の結論である。
『渇き。』は、人間の衝動を全て過剰に表現している。そのことが一番強く出ているのが、ラストのシーンである。
『渇き。』のラストは、娘の遺体を探すシーンである。主人公は、娘を殺した犯人に遺体を埋めた場所を示させる。 茫漠たる雪原で、この雪原のどこに娘の遺体が埋まっているかなど、見当もつかない。 主人公は犯人に、娘の遺体を探すように命じる。娘の遺体の捜索と、犯人への復讐を同時求める様子は、過剰な衝動の表現で、案の定、犯人にスコップで殴られ逃げられる。主人公は再び犯人を捕まえるが、結局自分でスコップを持って、雪を掘り始める。
原作のラストの部分を読んだが、違った。主人公は犯人に娘を埋めた雪原に案内させ、自分がスコップを握り、掘り始める。自然な展開である。
原作を読んで書こうかと思ったが、止めた。原作はミステリーだが、リアリズムから逸脱している『渇き。』はミステリーではない。根本において、違うジャンルの作品である。

観客がストーリーについていけないテンポで、バイオレンスが連続することで話題になっている『渇き。』だが、『渇き。』だけが特別にバイオレンス表現が激しいわけではない。
日本での過剰なバイオレンス表現を表現した作品は、おそらく『北斗の拳』に始まる。そしてこの流れは、『シグルイ』において一度、頂点に達している。
漫画と映画の違いはあれ、『渇き。』はこの『北斗の拳』以降の系譜に属している。 人がバイオレンス表現を求めることは、別に悪いことではない。
それどころか、人によっては必要でさえある。 自らの心の闇を癒すために、バイオレンスが必要であることもある。
しかしそのためには、バイオレンスに至る過程をしっかりと描いたものであることが重要である。バイオレンスに至る過程がしっかりしていることで、消費者は自分が心に闇を持つに至った経緯を後追いすることができ、自らを再構築する契機にもなりうる。
しかし、日本におけるバイオレンスの受容は、『北斗の拳』や『シグルイ』に代表されるように、どこかでギャグとして受容している。それはバイオレンス表現を求めながら、自らの心の闇を後追いするのを拒絶しているようにも見える。自らの心の闇を後追いせずにバイオレンス表現を求める者は、心の闇を根本から治療できない。そのため対症療法の手法、すなわち心の闇を癒すために、次のバイオレンス表現を求め、またしばらくするとバイオレンス表現への飢えを感じるのを繰り返していく。
『渇き。』は実写の映画であり、漫画とは表現手法が違うが、速いテンポでバイオレンスを連続させて、「スッキリ」させるといったところか。

しかし、『渇き。』が観客のバイオレンスを求める思いを満たすだけの、価値の低い作品かといえば、そうでもなさそうである。
『渇き。』を解く鍵は、主人公の娘、加奈子にある。 加奈子は、なぜ、多くの者を陥れ、罪を重ねていくのか?
「復讐のためだ」というのが、映画で示されている、一応の答えである。しかし映画を見た者は、この答えに納得したのか?
ならば加奈子の友人達は、なぜ口々に、加奈子のことを「本当にその人の求めているものを読む」と言うのか?
そもそも、復讐のために、あれだけ多くの者を陥れることができるのか?これは人間性の問題ではなく、能力の問題である。

以前、あるブロガーと、環境の影響なく犯罪に至る者がいるのかについて論争したことがあった。 私は「犯罪者は皆環境に影響されている」と主張した。 しかし今、この主張を撤回しなければならない。『渇き。』は、環境に影響されずに犯罪に至る者が存在することを示しているのである。

加奈子が殺されるシーン。 犯人は、加奈子の被害者の母親である。 「あなたは愛を知らないのよ」と、母親が叫ぶ。 「愛?それ、超ウケる…」と言って、加奈子は死ぬ。 これが答えである。加奈子は生まれついての犯罪者である。
加奈子が犯罪に至る発端は、恋人の緒方が自殺したことにある。
加奈子は、緒方の葬式で、緒方の遺体に口づけをする。一見、復讐を誓うシーンに見えるし、それは間違いではない。 しかし加奈子は、緒方の死など、好きなオモチャを壊されたくらいにしか思っていなかっただろう。 緒方への口づけは、復讐というヒロイックな気分に酔うためにしたのであり、本当は犯罪への動機を与えられたことに、加奈子は心を踊らせていたのだろう。
このようなタイプは、環境によって更正されにくい。
主人公、藤島は、加奈子を放任したことを苦に病んでいる。 しかし藤島や加奈子のために苦しんだ人々が、真に救われるのは、通常とは逆に、加奈子が生まれついての犯罪者であることを理解することである。
映画は、救済への道を永久に閉ざす。そしてバイオレンスを満喫した観客も、加奈子を理解できないことで、救済されないままになる。これは『果てしなき渇き』ではなく、まさに『渇き。』である。