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坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

集団的自衛権行使容認の行き着く先は、天皇主権の「自主憲法」

石原慎太郎氏は、日本国憲法をアメリカから押し付けられた憲法とし、国会決議で廃憲とし、自主憲法を制定すべきだと述べている。
ウィキペディア石原慎太郎 政治姿勢 発言」参照
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E

日本国憲法の改正でない自主憲法でも、憲法96条に則って国会決議の後に国民投票で可決するのが、後腐れがないと私は思うのだが、国会決議のみでの廃憲を求める石原氏は、さながら日本国憲法憲法に値しないと言っているかのようである。
護憲に多いに問題があるとは言え、ことさらに日本国憲法を軽んじるようなこの発言に、私は石原氏が時代の流れを読み取っていることを、危機感とともに感じている。

『「この道しかない」の本音は、「憲法を守るにはこの道しかない」』で述べたように、今回の衆議院選挙で、日本人が憲法を変えることの困難さはより明確になる。
http://sakamotoakirax.hatenablog.com/entry/2014/12/08/103338
ならば、日本人は憲法を変えることができないのか?
そんなことはなく、より日本人にとって抵抗が少なく、むしろ日本人にマッチした憲法を変える手段がある。それが、石原氏の自主憲法論である。

そもそも、自主憲法論は戦後間もない頃から存在する。
日本の再軍備を痛感したアメリカも、日本に憲法九条を改正するように打診したことがあるが、日本は改正しなかった。
もし、戦後間もない時期に自主憲法を制定したならば、問題は少なかっただろう。その場合は明治憲法を元にしているため、国民主権基本的人権などは制限される可能性が高いが、その歴史を良かったとするかは、その歴史を歩んで見なければわからない。
しかし既にもう日本は、憲法九条による平和主義を掲げて、約70年の歴史を持ってしまったのである。しかも「我等が選んだ平和憲法」と高らかに唱いながらである。
この平和主義の歴史をどうするのか。改憲論とは、過去70年の歴史の見直しであり、逆に言えば、過去の歴史の見直しができなければ、憲法改正も不可能である。
しかし自主憲法論は、この過去の歴史の見直しを素通りするのである。私は、改憲論と自主憲法論の違いを、ここに見ている。

過去の歴史の見直しを素通りする手法は、「日本国憲法はアメリカに押し付けられたもの」である。アメリカを加害者とし、日本人をその被害者とする。日本人が自分達が被害者だと思うことで、過去70年の歴史を忘却する。

日本人が簡単に過去を忘却することが本当にできるのか?
今まで憲法を散々批判してきた私も、簡単にできるとは思わない。
しかし忘却への壁を薄くするのが、現行憲法による集団的自衛権の行使容認なのである。これに付随する「積極的平和主義」は、これまでの平和主義の歴史が「神話」であったことを国民に認識させる。ならば平和主義の歴史に固執することはない。平和主義の歴史、いや「神話」など忘却していい。むしろ忘却して、無かったことにしてしまいたい。
国民がこのように思うのを、自主憲法派は待っている。

さらに、安倍首相の「横暴アピール」が、自主憲法派を後押しする。
自主憲法派は、国民が権利放棄をしたがっている空気を読んでいる。権利放棄をしながら、権利放棄をしたのではなく、権利を奪われたという体裁をとりたがっている空気を読んでいる。
自主憲法派がモデルとするのは、天皇主権の明治憲法である。
他にモデルとする憲法はない。というより、明治憲法以外のモデルを、自主憲法派は持てない。
というのは、法理論的に、自主憲法派は一番優れているからである。
今回詳細な説明は省くが、自主憲法派の主張は日本国憲法制定の手続きが不当であり、日本国憲法が無効であるというものである。
(詳しく知りたい方は、ウィキペディア「八月革命説」をご覧下さい。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD%E8%AA%AC

つまり潜在的に明治憲法は生きており、法理論的根拠が硬いため、明治憲法以外のモデルを持ちにくい。
そして、天皇主権の明治憲法は、権利放棄をしたい国民の心理と共鳴する。したがって権利放棄こそが九条改正の手段という思考になる。

なお、自主憲法が制定された場合、日本国憲法を押し付けたアメリカは、大澤真幸が『不可能性の時代』で述べた、「第三者の審及」の立場を失い、天皇制が「第三者の審及」となる。この場合、日米安保の維持は不可能とは言わないが、非常に困難になる。自主憲法派が自主憲法制定に躍起になればなるほど、アメリカの憲法押し付けを強調することになり、日米安保破棄の可能性は高まる。

以上、自主憲法の危険性について述べてきたが、将来自主憲法が制定されるかと言えば、私もその可能性は低いと思っている。
おそらく、自主憲法制定はぎりぎりで回避される。いくら日本人が権利放棄をしたいとは言え、国民主権基本的人権までは簡単に放棄しない。それほどに主権や人権は手放し難い。
ただし、自主憲法制定のぎりぎりまではいくだろう。現状、自主憲法の危険性への認識は低い。それは、潜在的に天皇主権は未だ効力を有しているという、法理論的に正当な自主憲法論の主張を、自主憲法派が明示しないからである。自主憲法派は天皇主権の効力を仄めかすだけで、国民が権利放棄の欲求を押さえられなくなるのを待っている。私の見る限り、自らを自主憲法派だと言わない、隠れ自主憲法派も多い。
自主憲法派の危険性が認識されないもうひとつの理由は、護憲こそが権利放棄の原因だという現実に、護憲派が直面していないからである。その意味で、護憲派自主憲法派の温床のひとつである。将来多くの護憲派が、自主憲法派に鞍替えするだろう。
自主憲法派の動向は、現状では楽観できないのである。