坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

『罪と罰』のクライマックスは「ソーニャへの告白」

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「で、どんなふうに殺したと思う? あんな殺し方ってあるものだろうか? あのときぼくがでかけて行ったように、あんなふうに殺しに行く者があるだろうか? どんなふうにぼくが出かけて行ったか、いつかきみに話してあげよう……果たしてぼくは婆さんを殺したんだだろうか? ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ! あそこで一挙に、自分を殺してしまったんだ、永久に!……あの婆さんは悪魔が殺したんだ。ぼくじゃない……もうたくさんだ、たくさんだ、ソーニャ、よそうよ!ぼくをほっといてくれ!」(新潮文庫、工藤精一郎訳)
ラスコーリニコフがソーニャに罪を告白し、ラスコーリニコフの苦悩が最も大きくなるこの瞬間こそが、『罪と罰』のクライマックスである。 ラスコーリニコフのこの言葉こそ、文学史上人間の苦悩を最大に表現したものであり、そうである以上、この後の部分はストーリー上必要とはいえ、基本的に蛇足である。
自首し、シベリアに流された後、受刑中にラスコーリニコフは夢を見る。 人類がある旋毛虫に感染する夢で、この旋毛虫に感染した人は、自分の信念のみが正しいと信じ、他人を疑い、殺し合うようになる。そして人類のほとんどが死に絶える。
ここにドストエフスキーの思想を読み取り、個人が自分の欲望を抑制し、集団の利益を考えるべきだというのが、『罪と罰』のテーマだと解釈する者もいる。しかしこの部分は、理論を説明されて「そうだ」と理解する「納得」であり、感動ではない。文学は快感、感動を扱うものであり、それは個人の感情に帰属する。文学はどこまでも個人主義に基づくものであり、集団主義の文学というものはない。集団主義による文学が存在しない以上、ドストエフスキーラスコーリニコフの苦悩からくる「感動」を、集団主義の「納得」とすり替えようとしていたかさえ、論ずる意味のないことである。

なお、ドストエフスキーの思想は、ニーチェと比較することでよくわかる。
ドストエフスキーニーチェは、同時代の思想的対立者である。ニーチェの思想では超人思想が有名だが、『罪と罰』も超人思想を扱っている。 ドストエフスキーは、超人思想に有効な反撃をくわえながらも、論破しきれていない。超人思想は思想である前に現象だからである。思想がなくとも、現象は起こる。
数年前に、日本ではドストエフスキーニーチェが両方ブームになった。しかしドストエフスキーニーチェの違いを指摘した意見を、私は聞いたことがない。 今はドストエフスキーニーチェも流行っていない。流行っているのは『ニーチェ先生』である。
ドストエフスキーニーチェのブームが終わったのは、第二次安倍内閣が成立してからである。 安倍首相は時々強さを演出しているが、基本的にボトムアップ型のリーダーである。 まるで日本人は、ドストエフスキーからもニーチェからもなにも学ばなかったようである。
安倍政権成立前の日本はデフレが続き、パナソニックやシャープの赤字などで、「強いリーダー」を待望する機運があり、それが超人思想を下支えしていたのは確かである。 しかし安倍政権成立後の日本を見ると、私は特にニーチェの超人思想の受容は、スクールカーストの上位者程度の者が、自らを「小さな超人」に見立てるための受容だったのではないかと思えてくる。そうなれば、ドストエフスキーの超人思想へのアンチテーゼなど、さらに必要のないことになる。