坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生(39)東京喰種∶8〜受け入れたカネキ

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カネキは自責の人間である。
金木研の名前は、太宰治の出身地青森県北津軽郡金木村から来ている。つまりカネキは太宰と対比されている。
同類ではなく対比されているのである。「この世の全ての不幸は当人の能力不足」というヤモリの信条を、敵として憎みながらも引き継いだカネキは、言葉通りに全てを自分の問題として受け止め、問題を解決できないと全て自分の責任だと抱え混んでしまう。そういうカネキを月山習は「選ぶ力がなかった頃の延長線」「なんと健やかな弱さ」と思う。
世の中には、人に迷惑をかけながらも一部の人間に責任を転嫁する他責の人間と、責任を転嫁されながらそれに根本的に疑問を持たないように教育され、素直に問題を自分のものとして捉え努力を続ける自責の人間がいる。自責の人間はそのため報われず、やがて努力も続けられず不幸な人生を終える。
太宰の『人間失格』は私は全く受け付けなかった。読んだ時は、太宰の分身である主人公がなぜそう思うのか、なぜそういう行動をとるのか全くわからなかった。しかし今はわかる。文章の裏には太宰の数多くの嘘と卑劣さが隠されている。その卑劣さが私に『人間失格』を受け付けさせなかったのだと。
つまり『東京喰種』は、『斜陽』や『人間失格』へのアンチテーゼでもある。他責の人間に対する、自責の人間が文字通り全てを背負い混んだ時にどのようなことになるか、それを描くのが『東京喰種』のテーマである。

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トーカのカネキへの態度はこのようにつっけんどんである。女性の可愛らしさをみせることがあまりない。
トーカはよく美人だと評価されるが、正直絵では他の女性キャラとの違いはわからない。ショートカットで髪を青く染めていた頃はともかく、黒髪で片眼が前髪で隠れているトーカは、作中の女性キャラの中では色気の薄い方である。
かと思うと

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とこんなことを言ったりする。トーカは世間知はあるが、その世間知の皮を破れば疎外感で溢れているのである。そして自分に自信がない。

日本型ファンタジーの誕生(30)~『亜人』3:下村泉 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の下村泉のように、「見捨てられたヒロイン」はしばしば色気なく描かれる。女性の色気はしばしば女性の幸福感から出る。しかしカネキは、そんなトーカを愛しているのである。そしてトーカは身籠る。

カネキの率いる「黒山羊」が地下に追い詰められ、地上では喰種が追い詰められ、食糧にも事欠く中で、カネキとトーカはそれなりの幸福を感じていた。
そんな蜜月期を過ごすカネキとトーカに、CCGの魔の手が伸びる。CCGの最大戦力は、鈴屋什造率いる鈴屋班である。

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鈴屋班は0番隊に匹敵するほどの戦力であり、食糧班が食糧調達に出かけた残りの人員では鈴屋班に対抗できないことが強調される。

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「sokokanasakinokotohasiranai(そこから先のことは知らない)kokoderyuwo(ここで竜王)」とコマ枠にある。
旧多は「竜」を「僕の味方」と言う。「黒山羊」壊滅のための作戦名を旧多は「コウリュウギ」と名付けてもいる。
旧多のオッガイを使ったなりふり構わない喰種殲滅作戦は、多くのCCGの捜査官の不評を買うものだった。
「死には意味がなければならない」という丸手斎は、和修政のやり方を「兵の犬死なせ」だと批判する。しかしその丸手も、旧多と比べて政の方を「あいつの方がましだった」と言う。それだけ旧多のやり方は、精神的にも肉体的にも過酷なものだった。
カネキも「旧多さんが局長の方がいいかも」と言っている。その旧多にカネキ達は追い詰められるのだが、一方では瓜江達が旧多を弾劾している。
旧多のやり方は間違いなく喰種に最大の打撃を与えたが、それによりカネキは「竜」になる。まるで

日本型ファンタジーの誕生(27)~『東京喰種』3:「父殺し」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で有馬貴将がカネキを追い詰めたことでカネキが覚醒したように、旧多の行動は反撃されることを望んでいるかのようである。それを作者は「僕の味方」と旧多に言わせることで表現している。

「黒山羊」の喰種にとって、悲劇を予感させる材料が次々と出てくる。

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束の間のトーカとの蜜月は、この悲劇のためにあったのかと思わせる。
このストーリーは、私は単行本でなく雑誌で読んでいたので、毎回暗澹とした気持ちにさせられたものだ。
そしてナキが倒れ、ヒナミも倒されそうになる。
あーはいはいわかりましたwww。
この悲劇を予感させる展開が繰り返されることで、逆に悲劇は回避されるとわかる。少なくとも「黒山羊」が壊滅する事態はないと読めてしまったwww。
虫の予感を感じたカネキは、一人で引き返す。そして鈴屋什造と戦う。

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これから激闘が始まるかと思うと、無惨にも手足を斬られて横たわるカネキの姿が。
いや、カネキは健闘したのである。ただその姿は描かれなかった。

『進撃の巨人』を考える① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で訓練兵達が「死」に直面したように、読者は絶望に直面する。
カネキの脳内で複数のカネキが話し合う。この時のカネキは多重人格的である。脳内でもう一度什造と戦うが、やはり負ける。そして悟っていく。「黒山羊」が壊滅させられ、喰種がみんな殺されることを。自分が死んで、トーカに会えなくなることを。トーカに会いたいという思いだけが心を占め、そのために邪魔なものを全て取り除き、「退かない。前に進む。百足みたいに」と言ってオッガイ達を全員捕食する。
百足とは、ヤモリに拷問を受けた時に耳の中に入れられた百足のことであり、カネキに乗り移ったヤモリである。オッガイは神代利世の赫包を移植されたリゼの子供で、カネキとリゼの精神的な「結婚」を意味する。
さらに旧多が持つ「核」を捕食し、カネキは「竜」となる。
この「核」とは、『進撃の巨人』の座標と同じである。『進撃の巨人』ではエルディア人を貴族が支配し、貴族の上にエルディア人である王がいる。
これが壁の中の話で、壁の外の世界では全世界がエルディア人を迫害し、世界の大国マーレを指導する潜在的権利をエルディア人のタイバー家が持っている。
『東京喰種』はCCGが喰種を迫害し、CCGの頂点には喰種の和修家がいる。しかし和修家も直系以外は人間と交わり、純粋な喰種は劣っているとされる。つまりみんな奴隷なのである。

「竜」となったカネキは、東京中の人間を喰らい尽くす勢いを示す。永近英良が「竜」からカネキを掘り出そうと喰種に働きかけ、喰種がCCGに押しかけて、CCGと喰種の協力体制ができる。
「竜」の目に赫包が集中しており、さらに金属探知機によりカネキのもつネックレスを特定できると踏んだ喰種とCCGの職員種は、総力をあげてカネキを見つける作業にかかる。
トーカの金属探知機が反応し、カネキの居所が判明する。六月の妨害を身重の体で戦いながら、トーカはカネキを掘り出す。

 

この目だらけの腕は、上から垂れ下がっているが、トーカは下に向けて掘り進んでいたはずである。またカネキの身体は赫子で構成された黒い腕でなければならない。しかしこのコマでは目が生えた腕を見せることで、カネキの精神のグロテスクさを表している。

『春の呪い』の「近親婚的なもの」と「罪の時代」の終わり - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で見た、非リアリズム的手法である。この腕を見つけた時のトーカの喜び。この醜い腕が、愛されている。

カネキの意識の中で、カネキは厳島神社伏見稲荷大社をミックスさせたような、海の中の神社にいる。カネキは海の中に大勢の人間の死体が沈んでいるのを見る。そしてカネキはリゼに再会する。
「人殺し」とリゼはカネキに言う。大勢の死体は、カネキが殺した人々だった。その罪の意識にカネキは耐えられず、色々と殺した口実を探すが、リゼに論破される。そして「あなたは他人が死のうがどうでもいいもの、無責任」と言う。カネキは懊悩し、そして気づく。戦うことで誰かに求められようとしたこと、リゼと会ったせいで様々な不幸な目にあってもリゼを恨んでいないこと。そして自分が幸せだったこと。
「背負えるかどうか試してみます」と言って、カネキは海を泳ぎ、現実に戻ろうとする。そしてカネキは目を覚ます。

 

カネキの髪が長くなっているのに注目しよう。カネキとカネキ以外の人間とでは、時間の流れが違うがである。

この後、リゼが復活し、「竜」の残骸から生えた卵管から出る毒を受けて人間が喰種になるという減少が起こる。しかしカネキはその毒の影響を受けないことがわかり、カネキはその元を断つ役目を受ける。
途中で旧多を倒し、カネキは奥へと進んでいく。

誰もが悲劇の主人公だ。誰もがなにかを奪い、誰もがだれかに奪われる。それしかできない。それが僕らの全て。奪う、奪われる。囚える、囚われる。従う、従わせる。する、される。肯定と否定を繰り返し、僕達は失わないように戦ってばかりいる。なのに…愛する人も場所もかならず無くなる。ぼくたちはかならず忘れられる。生きることはかなしい。むなしい。それでもいつか失うとわかっていて、いつか消えるとわかっていて、醜く求めてしまう。美しくありたいと願ってしまう。

 

リゼによる「竜」の落とし子と戦いながら、カネキは時に押し潰されたりする。この描写を見て、カネキはこんなに弱かっただろうかと思ってしまう。
最終回で、死堪は共喰いにより赫者となり、CCGの後身、TCS発足以降最大の適正喰種となる。まるで隻眼の王、次いで「竜」となったカネキより強いかもしれないような描き方である。死堪はゲーム『東京喰種JAIL』の主人公で、「カネキの身代わりに死ぬ人間」で、カネキの分身である。カネキが死堪より弱く見えるのは注目していい。
そしてカネキは最深部にいるリゼを倒す。

それから6年、「落とし子」との戦いを続けながらも、世界は一応の平穏を手に入れることができた。そしてカネキが登場する。

 

目の下の痣も痛々しいが、ここは首に注目しよう。赫子でできたように見えるが、この首は老人の首である。人より時間の流れが速いカネキは、それなりの平穏!得るのに老人になるまでの時間がかかっているのだ。
根本的に、カネキは戦っていたのだろうかという疑問が湧く。カネキは「背負う」と言ったのである。
瓜江久生は変えられないことを誰かのせいにせず受け入れる道を選び、六月の攻撃も反撃することなく受け止めたが、カネキは戦っているように見えて実は受け入れており、時に受け入れることに耐えられず抵抗しているのではないだろうか?

日本型ファンタジーの誕生(38)東京喰種∶7〜カネキの非暴力主義の末路 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた、非暴力主義の否定はむしろカネキに「受け入れるな」と言っているのではないか?受け入れたら不幸になる、苦しみ続けることになると。だから本質は非暴力主義なのに、戦っているように見せているのではないか?そしてカネキが受け入れたことが、人類の8割が死ぬという『進撃の巨人』とは異なる結末に達することができた理由ではないか?カネキが受け入れたから、他の人々は6年の戦いでそれなりの平穏を得ることができたのではないか?
カネキの悲劇は、晩年まで続いていたと思うべきだろう。しかし晩年はしても、カネキは幸福を得ることができた。

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