坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

最近読めなくなったマンガ①

年を取ると、飽きるのが早くなる。
すると、昔は面白いと思って読めたマンガが読めなくなってくる。
その読めなくなってきたマンガのひとつが『日出処の天子』。

書評「日出る処の天子」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた頃には感動できた作品が、今は全く感動できなくなっている。
「書評『日出る処の天子』」(原文ママ)でも書いたように、この作品には超能力=負の感情=同性愛という構図があって、同性愛をひとりで歩む者とし、異性愛を他者と歩む者として同性愛を否定している。
私はこの記事を書いた頃はLGBTに対する知識がほとんど無かったが、リベラルの概念が私の中に浸透するうちに、『日出処の天子』を受け付けなくなっていった。期待しないでこの作品を読むと感動したのは、まだ私の中にLGBTに対する差別心があったということで、それは無自覚にしか発動しなかったからである。期待して読むと、自分の中の差別心に直面してしまう。
この作品をヒューマニズムと見たのも、今は間違いだったと気付いた。例えばこの場面。

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厩戸王子が新たに娶った菩岐々美郎女を蘇我毛人に紹介する場面である。誰かが「恐怖の結婚」と呼んでいたが、昔は私は衝撃は受けても、「恐怖」だとは思っていなかった。
今思うと鈍い話で、これは女性の差別心を刺激しているのである。恋愛感情を抱く男に、女性は特別な存在だと思われたい。その女性を貶めるために「気狂い」、見たところ統合失調症ではなく知的障害者のようだが、大和時代では区別はなかっただろう。
それはともかく、その「気狂い」を妃とすることで女性を貶めるのが「恐怖の結婚」なのである。「恐怖」というが、仮にある女性が「気狂い」に分け隔てなく接していたとしても、想いを寄せる男にこのような仕打ちをされたら、「気狂い」でない女性を娶るよりも何倍も傷付いてしまう。どんなに気持ちを殺しても、その時女性は自分の中の差別心に、己の中の醜さに直面せざるを得なくなる。それがこの結婚が「恐怖」だという理由なのである。

厩戸王子が「天才」というのも、最近は納得いかなくなっている。

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これはコムズカシイ事を言って頭が良さそうに見せているだけである。我々が「天才」を見たいと思う場合、芸術などの分野でない限り、その人の知識ではなく「知性」を見たいと思うのではなかったか?
こういうのも引っ掛かる。

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これは謀略ではないだろう。
阿倍臣人が年内に確実に死ぬというのは、相当の医学の知識が必要だが、いかに博識な厩戸王子でも医学の知識はあったか?それも診察せずに診断できるほどの医学の知識である。
阿倍臣人の病気は将来の可能性のひとつとして謀略に組み込んで置けば良いことで、それは厩戸王子でなくとも蘇我馬子でもできることである。
これが謀略でないことは昔から感じていたことだが、昔はそんなに気にせずに流すことができた。
いつから私は、こういう脇の甘さを見過ごせなくなったのだろう?
それがいつだったのかを、私は確実に言うことができる。それは『進撃の巨人』で、超大型巨人をアルミンの作戦で倒した時である。超大型巨人の登場にアルミンは動揺し、「どうすればいいか僕にはわからない」と言って指揮をジャンに投げ出し、観察を続けてとうとう突破口を見出だしたあの時である。この時我々は、アルミンに本物を、厩戸王子以上の本物を見たのである。
我々は本当は、どんな密室殺人事件も解決する名探偵がいないことを知っているし、密室殺人のトリックも多くが甘いものだと知っている。それでも我々は「名探偵」を求め続けた。「名探偵」は「超人」であり、「超人」を求め続けるのは、その「超人」がそこここに居るのを我々が望んでいたかのようだった。その幻想をアルミンは完全に打ち壊した。

厩戸王子が「超人」だと認められなくなると、こういうのが許せなくなってくる。

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これは続編の『馬屋古女王』の一コマだが、「体の大きさに追い付かない頭脳」を知的障害者が自覚してそれに怒り狂うとは差別にもほどがあるだろう。しかしそう思うのは、単にリベラルの観点からだけではない。厩戸王子の威信の低下と連動しているのである。

かつて『日出処の天子』をヒューマニズムと解釈したのは、絶望した厩戸王子に激しく共感したからで、今は同情しない訳ではないにしろ、もはや激しく共感することはない。
厩戸王子は「天才」ではなく秀才であり、共依存の加害者である。厩戸王子による上宮王家の栄華は「天才」の偉業ではなく、秀才の業績に過ぎない。
作品に感動しないと、厩戸王子=聖徳太子が仏教を興隆させたことから、せめて仏教の思想性にでも触れたいと思うが、「仏は人を救わない」と厩戸王子が言い切っていることからそれも構わない。しかしそれがこの作品の構成をかえって際立たせている。
日出処の天子』は、厩戸王子という秀才=共依存の加害者と、同性愛者=相手を自分と同じにする者をイコールにし、厩戸王子が愛を失うことで孤独になり破滅する物語である。『馬屋古女王』は、孤独に耐えかねた厩戸王子が女になって愛を求め、またそんな自分を嫌悪した厩戸王子が勝手に一族を巻き込んで「自殺」するという、自己愛から逃れられない者の末路を描いたものである。

こうなるとポリコレの問題に行き当たるが、私は作品のポリコレには一切組みしない立場である。『日出処の天子』は私にとって不要になっただけで、まだこの作品によって得るものがある人は多いと思うし、得るものがある人がいなくなれば自然淘汰される。作品が気に入らない人は読まなければいい。
しかしポリコレに走る人の気持ちも少しわかった気がする。娯楽作品はリバタリアニズムで判断するべきだが、それでリベラルの不満は吸収できないのである。理論的には娯楽作品をリバタリアニズムで処理すべきだが、リベラルとの確執を完全に解消することはできない。ポリコレの弊害を意識しながらも、リベラルのポリコレ騒動はガス抜きになればいいくらいに思えばいいのではないか?

年を取ると飽きるのが早くなり、昔読めたマンガが読めなくなる。それは確かである。
しかしそれだけではない。
私の変化が、読めなくなる作品を増やしている。
コーヒーとミルクを混ぜればそれをコーヒーとミルクに戻せないように、この変化は元に戻すことができない。
マンガはひとつの例だが、高齢化社会で、我々は自覚しなければならない。既に変化した精神を、我々は簡単には後退させられないのだと。

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