坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

最近読めなくなったマンガ②

古いマンガがどんどん読めなくなっていく。
その受け取り方に個人差はあっても、マンガの洗練度というものは確かにあると思う。
例えばスピード感である。
マンガのスピード感を格段上げたのは、やはり鳥山明の『ドラゴンボール』だろう。
ドラゴンボール』以前と以降のマンガでどうスピード感が変わったかといえば、『ドラゴンボール』以前は速い動きも遅い動きも同じ大きさで描いていたのである。

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このように遅い動きを頻繁に大きく描くと、スピード感のある場面を描いてもそれを感じ取れなくなる。
鳥山は遅い動きを減らし、どうしても遅い動きを描く場合は小さく描くようにした。歩く場面を片足が前に出ているだけで表現する方法を定着させたのはおそらく鳥山である。
他にも鳥山は、バトルでの一コマ1アクションを徹底することで『ドラゴンボール』のスピード感を極限まで高めた。もっとも今『ドラゴンボール超』を書いているとよたろうは一コマ1アクションの原則を必ずしも守っていないのだが、『ドラゴンボール超』はあくまでバトルよりストーリー重視のマンガなのだろう。
なお、

『進撃の巨人』を考える① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

でキャラの動きがわからないのを画力の問題だと描いたが間違いだった。鳥山が開発したのは人間と同じ体格のキャラの気功波と肉弾戦の描き方であって、巨大なものや人間でない体格のもの、魔法その他の肉弾戦でないバトルの、迫力があって見やすい描き方はまだ開発されていないのである。もっともそれを逆手にとって、敢えて分かりにくい描き方をして読者を作品の世界観に引き込むということは行われているようである。
また鳥山を真似て、スピード感を必要としないマンガでもスローな動きを小さく描くようになる。

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こういう作品を我々は「洗練された」と感じるのである。
もっとも、中にはスローな動きを大きく描く作家もいる。

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この場合は敢えて野暮ったさを出しているのである。『3月のライオン』は絵の可愛さが売りなので、キャラが少々どんくさい方がいいという判断がある。もっとも相当画力に自信がないとできない芸当である。

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まあウミノ先生は絵だけで読者を大爆笑させられるお方ですからwww。

マンガの洗練度はこれだけではない。
非論理性が高いとマンガの洗練度は下がってしまう。

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ここで二人が別れるからその説明をしているのだが、ローザンヌコンクールの間二人の生徒に付きっきりだった先生がどこで出場者が別れるか把握していない訳がないだろうとここで思ってしまう。完全に非論理的ではないが、非論理性が高い。
2000年代のマンガでさえ、ひとつ問題があると受け付けにくくなってしまう。

火の鳥 鳳凰編』もまた、私が読めなくなったマンガのひとつである。
我王が初めて人を殺すシーンなどは、今でも映画のようだと思うのだが、それでもこの作品が読めなくなっているのは、時代考証が杜撰だからである。
まず、我王が小判を盗むシーンがあるが、この時代に小判はない。小判は秀吉が作ったのが最初で、奈良時代は初めて金が発掘された時代である。その金が大仏鋳造にあたり鍍金に使われたりした。小判を作るほどの金があるはずがない。
そもそもこの時代には貨幣がない。
和同開珎や富本銭などの通貨は作られているが、なぜか通貨として普及していない。社会がある以上経済もあるが、バーター以上のものはなかったはずである。
茜丸は天涯孤独の身だが、この時代は身分制社会で、職業も身分によって決まる。仏師という職業に身分を証明するもののない孤児がつけるとは思えない。
また茜丸は各地で寺を訪ねて仏像を彫って暮らしているが、この時代、有力氏族が多くの寺を建てた畿内を除けば、日本全国では一国につき、寺は二つしかない。国分寺国分尼寺である。稀に地方にも信濃善光寺や浅草の浅草寺など、国が建てたのでない寺がある。山形には慈恩寺という古刹があり、行基和尚の開基というからちょうどこの時代だが、実際には平安時代に造られたという。
そんな事情で、茜丸が仏像を彫って旅をできるとは思えない。
旅といえば、日本には江戸時代まで旅籠がなかった。だから旅人は野宿をしなければならなかった。
旅籠もなく通貨もない。自分で食料を稼いで旅をすることになる。この時代は統一国家があった時代だが、私自身はそれを怪しんでいる。本当に統一国家がなかったのかを証明はできないにしても、治安事情は怪しんでいいだろう。
戦国時代には、腕に覚えがあれば一人旅も可能だった。そうでなければ、行商などは人数を集めて隊商を組んで行われた。
奈良時代はどうか?通貨がない分、戦国時代より不利である。この時代、腕に自信がなければ隣の国に行くのも不可能だったのではないか?一人旅もできないのに、女と二人旅などなおさら無理である。もっとも女に売春をさせれば、一人旅より安全に旅をすることが可能だろう。

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昔のマンガは、よくキャラに旅をさせるが、旅の苦労は描かない。ここまで述べたことも人によっては気にならないかもしれないが、私が気になってしまうのは安易に旅をさせることへの反感からかもしれない。生きる苦しみを描いているのに、学生が自分探しの旅をするように昔の人間に旅をされてはたまらないと思ってしまう。ひとつの共感がなくなってしまうと、時代考証にたちまち辛辣になってしまうリスクが歴史ものにはある。

もっとも洗練度については個人差があると思うし、洗練度によって受け付けない時は「チャンネルを合わせる」こともできる。つまり「この時代はこういう時代だ」と思うことである。
我々の多くはそのマンガが描かれた時代を経験している。その古い時代の価値判断の多くを我々は外しているのだが、「そういうものがあった」と思い出してその時代の感覚に戻れば昔のマンガも読めなくはない。
しかしそういう「チャンネルを合わせて」読む方法が強い感動を生むことはない。
我々は洗練されるたびに価値観と感性がアップグレードされるのである。それは新しい文法が開発されたようなもので、新しい文法が開発されるたびに、古い文法は「間違っている」文法に近いと判断される。作品のテーマ性でさえ文法を持たなければ充分に伝えることができない。
最近のマンガの新たな潮流は海外から起こっている。
それは主に韓国のマンガで、ネットで観れる。縦スクロール型で日本で開発されたコマ割りがないのでその分質が落ちるが、その変わりカラーである。もっとも私はまだ観ていない。
最近でも日本のマンガは、ヒット作はカラーにする傾向があるが、少なくとも単行本化した時点でカラーにしていくようにしないと、日本のマンガもシェアを喰われていくと思う。YouTubeによって映像無しの音楽を聞く機会がほとんどなくなったように、マンガも色無しでは読めなくなるように我々もいつかアップグレードされるのである。そうなればアニメのコンテンツの供給源も細って、アニメも下降線に入る事態になりかねない。

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