坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

リベラルの「先祖返り」、「ツイッター化」と政党の「多極化」

参院選では、ツイッターで多くのはてなのブロガーが野党を支持していた。
私は、これを左派の先祖帰り現象と見ている。
はてなのブロガーの多くはリベラルで、それでいて社会的発言と政治的発言を強引に分けようとしているところがあって、頑ななほどに支持政党について述べることがなかった。
先祖帰りは恐らく約23年くらい前、id:sirduke氏の台頭辺りから始まったのだろう。sirduke氏の後に
id:Vergil2010 氏が続いた。Vergil2010 は支持政党について述べたことは今までなかったと思うが、極めて護憲色が強いブロガーである。この二人の台頭と並行して、はてなでのリベラルな発言が次第に減っていく。
そして今回の参院選では、はてなのリベラルなブロガー達は、ブログではなくツイッターで野党支持を訴えた。
ブログでなくツイッターを多用するブロガー達のスタイルを、私はツイッター化と呼んでいる。
ついこの間非公開ブログを開設した私も偉そうなことは言えないのだが、ツイッター化は表現スタイルとしては右翼と同じである。
そもそも140字という字数制限のあるツイッターは論理表現に適さない。
中にはナンバリングしてツイートする人もいるが、そうでなくツイッターを利用する人は、論理的に説明する意思が欠けている人が多い。
さらにツイッターにはブロックやミュートがあり、観れないようにできる。
もちろんブログにもコメントの非表示や限定公開があるので、根本的にはツイッターと変わらないとも言える。しかしブログが広く自分の意見を表明するものと捉えられているのに対し、ツイッターは中の良い者に「呟く」ものである。
突き詰めれば機能はほぼ同じでも、目的が違っているために、人によってブログがメインかツイッターがメインかが分かれてくる。ツイッターがメインの人は親しい人に「呟きたい」のであり、それだけ排他的である。
私はまだ、著名なブロガー相手にツイートを引用して批判したことはない。著名人では橋下徹氏くらいである。
その理由は、ツイッターの内容を批判してもブロックされてしまえば更新したツイートが観れなくなり、情報を得られなくなるだけ損だからである。
読者やフォロワーの多いブロガー、ツイッターならそんな心配も必要ないだろうが、私自身はリスクを負ってもそれをする必要を感じながらも、未だにツイッターに踏み込まないでいる。ただしブロックするブロガーがいたら、そのことは遠慮なくブログに書いていくつもりである。
つまり、ブロガーのツイッター化により、健全な議論が行われなくなるのを、私は危惧している。
この記事でもツイッターの内容を、リンクを貼って言及することはしないし、誰がどんなことを述べていたかを具体的に書くこともしない。ただその内容をひとつだけフィルターをかけて述べれば、ある党の公約にほとんど賛成していないが、その党に投票すべきだと趣旨のツイートがあった。政策は支持していないが、その党を支持すべきだというのは、今回の参院選が結果的には野党が勝利したとはいえ、その実態は危機的状況にあるのは野党であり、今回の参院選が野党支持者による、なりふり構わない野党防衛であったことを示している。

私は野党に投票したけど、与党に投票した人をくさすことはしません。

くさしたところで、他人を変えることはできないですしね。むしろ、バカにされたことで反感を持って、余計に考えを変えないというのが自然だと思います。逆効果。

 

topisyu.hatenablog.com

で斗比主氏は述べている。仰る通りですね。でもね、

投票率が低かった参議院選挙 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、野党統一候補の無所属新人にしか期待できなかったくせに、とにかく野党を守り立てようという行動に何の批判も加えないほど人間が出来ちゃいませんよ。

さて、参院選で話題になったれいわ新選組とN国について。特にれいわについて述べよう。
れいわ新選組については、

www.yomu-kokkai.com

でsirduke氏が書いたが、私はこの記事にほぼ全面的に反対である。
sirduke氏は山本太郎氏の消費税論に触れ、これを「選挙に勝つための公約」と見て、かつての左派政権を引き合いに出して、「大きな政府」を語らずに社会保障の増大に対応しようとしたことが左派政権の瓦解を招いてきたと述べ、

しかし、そのような思考のもと選挙に勝った野党がその後なぜ政権を維持できなかったか、を考えると、このような思考はやはり、政策をもとに政党を選ぶという有権者のあり方とは大きくかけ離れたものではないか。

 

として、れいわ新選組も将来的に同じ失敗を辿るというニュアンスを持たせている。
正直に言って、認識が甘い。
山本氏は本気で政策を実行する気である。
もちろんそうなれば、赤字国債を大量に発行し、それを紙幣の増刷で償還して高インフレになる。それを本気で実行する気なのである。
sirduke氏はそれを、山本氏が「本気の人」だからと捕らえている。それ自体は決して間違いではない。
問題は、何に本気かということで、それをsirduke氏は「総理になりたいから」と見ているようで、消費税廃止もれいわ新選組も、そのための手段だと思っているようである。
いや、総理になることも手段ではないのか?

年金を上げなければ高校無償化できない日本 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたのとは違って、教育無償化が先で年金の問題が後になったが、それはそれとして、日本人が親の世代を恨んでいることが、日本人の多くが消費増税に反対する理由だと述べた。
そしてれいわの消費税廃止論は、この「親への恨み」に拍車をかけるためのものである。
私は消費増税派で、消費税廃止に賛成している訳ではないが、それでも感じるのは、「親への恨み」が生み出す爆発的なエネルギーである。
この、将来自らの首を締めることにもなる後ろ向きな感情も、社会の変革のために必要ではないかと思い始めている。

2018年の人身事故件数は1108件、2017年の人身事故件数は1122件である。
人身事故件数は自殺率の代用として時々見ていたが、この夏から人身事故件数が急激に減り、本日21:00時点で679件である。
去年までで夏と冬に事故件数が大幅に増えるのは確認しており、時に1日10件以上の事故がある日もあったが、今年の夏はそんな日は全くなかった。去年とだいたい同じ水準の事故件数になるには1ヶ月平均90件必要で、そう考えれば8月時点で720件必要たが、8月は700件に達しないだろうと思われる。
人身事故件数と自殺率はほぼ連動していると思うが、毎年微減だった自殺率と人身事故件数も、人身事故件数はは今年は少なくとも100件以上減り、自殺率もそれに合わせて減るはずである。
そしてこの自殺者の激減を、私は「れいわ効果」だと見ている。つまり「生きてていいんだよ」と報われない人々に語りかけた、山本氏による効果である。
山本氏が「総理になりたい」ことと、低所得者を初めとする報われない人々の救済はイコールである。山本氏の手段を「個人的野心」に結びつけることには何の意味もない。だかられいわについては、我々が高インフレの社会を選ぶか選ばないか、また「望むべき社会を選べないか」という問題があるのである。
sirduke氏はれいわに若干の警戒心を持ちながらも、基本的に読者に「精神安定剤」を与えるためにこの記事を書いたと私は見ている。

なお、れいわが共産党と主張が似ている点についても述べよう。
れいわは公務員を増やすことを主張している。それも保育士や介護士なども公務員にしようと言っている。
それならば保育士や介護士も自分が公務員になれると思ってれいわを支持するだろうが、このような政策はれいわが政権を捕るまで当然実現しないし、れいわ政権ができるとしても、それはずっと先のことである。
その間れいわ支持の保育士や介護士は、「自分は公務員になるべきだ」と思いながらなれない現実と向き合い続け、公務員への反感を育てていく。
そして公務員の組合を支持団体とするのが共産党なのである。だかられいわは、最終的に反共産党になるために共産党に近い政策を取っているのである。

当選したれいわの障害者のために、参議院が費用を負担することが決定されると、橋下氏や維新が「議員報酬か政党で負担すべき」と主張、その過程で橋下氏は所得再分配論を主張、そして吉村大阪府知事大阪府で障害者対策の実施を宣言した。
その間、維新とれいわは妥協し合うことがなかった。
私はこれを「多極化」の時代の到来と見る。
「多極化」の時代は、政治家は差異を強調し、そのために団結が難しくなる。そして多極分化は「一人一政党」のような様相となり、政局は混乱を極める。「N国」もそのような「多極化」の流れで生まれた政党である。
しかし一方で意外な、水と油のような党が一時的、限定的に協力する光景を、我々は目にするだろう。
その流れを読み解くには、各党が何を目指しているかを正確に見抜くことである。
特に維新は、「何を言っていないか」を見抜くのが、今後の動向を読むポイントである。れいわの議員の問題で維新は、実は社会民主主義への足掛かりを作ったのである。
経済右派の維新が社会民主主義をするはずがないと思うならそれは大間違いで、維新はケインズ主義も社会民主主義も否定したことはない。
イメージは今どういう支持者を取り込んでいるかを見るために必要なのであって、必ずしも将来の指針とはならない。維新も今すぐ社会民主主義に切り替えるのではなく、布石を置いただけである。
れいわ、維新、「N国」のロジックが各党の指針となり、時代の潮流を生み出していく。ロジックを見抜かずに精神安定剤に飛びつく者は、潮流から取り残される。

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