坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

父親のわからない貴族達と神の血を棄てた武士達

「近親婚の古代史と父親のわからない貴族達」で述べたように、日本では父親が誰かわからない子供が産まれても、その子供に父親と血統をあてがい、男系社会を維持する努力が、かえって男系社会の形成を阻害してきた。
http://sakamotoakirax.hatenablog.com/entry/2015/01/24/150916
ここで疑問が生じるのは、父親が誰かわからない子供が、「実の父親が違う」と陰口を叩かれることはなかったのか、そしてそのことが、子供の地位を損うことにならなかったのかということである。
実際、このような陰口はあった。しかし日本の場合、その陰口の在り方がかなり特異なのである。

日本において、その血統に疑惑がある時に囁かれる陰口とは、「御落胤説」である。
有名なのは、平清盛だろう。平清盛は、実の父親が白河法皇で、そのために出世し、ついには天下を取ったというのである。
最近の研究では、清盛が白河法皇の子である可能性は少なく、貴族達のやっかみから出た噂だというのが真相のようだが、ここに、実際の身分よりも高貴な血筋を引いている「御落胤」のみが噂になるという、血統に疑惑のある者に対する、日本独自の在り方が見てとれる。このような例は齊藤道三の子の義龍、細川藤孝、土井利勝など枚挙にいとまがない。
そして、血統に疑惑のある者の父親が、実際の身分と同等もしくは低かった場合、少なくとも記録に残るほどには、人々の噂にならなかった。

このように見ると、日本は血統に疑惑のある者に対して「優しい」社会だったといえる。しかしこの「優しさ」は、はたして本人のためになったのだろうか。
世界史でも、出生に疑問のある人物はいる。最も有名なのはチンギス・ハンだろう。チンギス・ハンの場合、父親がモンゴル族以外の者の可能性があり、モンゴルの主権者としての疑惑が生涯を通じて持たれていた。
他に、豪商呂不韋の子ではないかと噂された秦の始皇帝や宰相マザランの子だという疑惑のあったルイ14世などがいる。
井上靖は、出生の疑惑を持つチンギス・ハンが、戦いを通じてモンゴル人であることを証明しようとしたという視点から、名作『蒼き狼』を書いた。
始皇帝ルイ14世は国民を疲弊させた君主だが、それぞれの国で、彼等を偉人と見なす向きは多い。三人とも、征服欲が強い点が共通している。
日本の出生の疑惑のある、または血統上、正しく祖先の血を引いているか疑わしい貴族達はどうだったか。
武士達を東夷(あずまえびす)と蔑み、国が乱れても自らは武器を持たず、国の乱れを建て直す力がない。ノブレス・オブリージュを片鱗も持たない。
日本の貴族が通い婚を止められなかった理由について、私にはひとつの考えがある。
それは、自分達が正しく祖先の血を、神々の血統であるか疑わしいから、他人の血統を汚したいという衝動が、通い婚を支えたのではないか、という考えである。それではいつまで経っても、男系社会は完成しない。
出生に疑いのある者が、出生の疑惑を他人から指摘されないのは、指摘されることよりもはるかに本人のためにならないことらしい。そして身分制社会は、危うさを抱えながらも簡単には壊れない。

一方、貴族に代わって権利を握る武士はどうだったか?
まずは、武士の発生から考えてみよう。武士が開墾地主であったことは教科書が教える通りである。問題は、彼等がどうやって開墾地主になったかである。
農業技術が大きく向上した室町時代なら、独立自営農が数代かけて大農場主になることはあり得ただろう。しかし武士の発生は平安時代である。国は建前上は公地公民で、しかも時代が下るにつれて荘園が拡大すると、残った公地では受領の収奪が激しくなっていった。独立自営農が土地を拡大して武士になれる可能性は、この時代は極めて低いと言わざるを得ない。
そして、武士の家系を調べていくと、注目すべきことがある。日本では源平藤橘という、ほとんどの日本人が家系を辿ると、この四氏に行き着くという(もっとも橘氏の家系に属する氏族を、私は知らないのだが)。
武士の家系も、この四氏に属するのだが、注目すべきは、多くの氏族が、古代氏族を家系を四氏に切り替えた形跡があることである。
例えば源頼朝落胤説を主張した島津氏は、古代豪族の秦氏の系統らしい。また古事記に登場する神である、建御名方の子孫として地元の尊崇を受けている諏訪氏でさえ、一時源氏を名乗ったことがあるという。
私も武士の家系を多く調べたわけではないのだが、それでもこう言える。発生時の武士は、その相当の数が古代氏族だった。そして彼らは元々、地元で神々の子孫を名乗っていた。彼らは神々の血を棄てたのである。

神々の血を棄てた武士達は源平藤橘の家系を造り上げたが、彼らは勝手に家系を自称したのではない。
源氏や平氏の頭領に頼み込んで、系図に加えてもらったのである。
しかし源氏や平氏の頭領も、簡単には同じ氏族として迎え入れたりしない。先祖の名前が数代空白になっていたり、系図によって先祖の名前が違ったり、つまりいつでも家系から外せるように細工されていたのである。
神々の血を棄てた武士達は、大農場主とは言え、本質的に賎民だった。
それでも彼らが、神々の血筋を棄てたのには充分な理由があった。神々の子孫のままでは、都の貴族のようであっては、土地を守れなかったのである。
土地を守れる、いくさに強い氏族を形成するために、彼らがしたのは神々の血を棄てただけではない。
通い婚から嫁入り婚に切り替えたのである。通い婚が続いたのは、家産の相続権が女性にあったからである。武士は嫁入り婚により、女性の家産の相続権を奪った。
ただ相続権を奪っただけではない。武士は一夫一婦制を始めたのである。私の知る限り、武士階級で側室制度が一般化するのは室町以降のことで、鎌倉時代まではほとんどの武士が妻を一人しか持たなかった。
武士が本質的に賎民である以上、彼らが貴族達に、最後まで革命を起こせなかったのは自然な結末だった。男系の血筋のいかがわしさは、通い婚を止められなかった貴族達の方が勝っていたが、貴族達は武士を蔑んだ。むしろ自分達の血筋に一層のいかがわしさを感じるからこそ、貴族達は武士を蔑み続けたのかもしれない。そして武士達にも、祖先を棄てた負い目があった。
しかし賎民であることは、彼らの誇りでもあった。武士を表す言葉に「さむらい」がある。「さむらい」の語源は、「従う」を意味する「さぶらう」に由来する。実質的な支配者でありながら、従属者であることが、武士の矜持だった。